生物学シンポジウム「生命機能における再生の現代像」開催のご案内
河合文化教育研究所では新しく理系シンポジウムを長野敬主任研究員の主導のもと開催することになりました。
こちらもご覧ください。→・2015-生物学シンポジウム(A2ポスター).pdf
生物学シンポジウム
生命機能における再生の現代像
◆日時 2015年7月5日(日)15:00~18:00
◆会場 河合塾麹町校デルファイホール
◆趣意
両親(雌雄)から子ができてくる有性生殖は、われわれにとって身近なものだが、その仕組みが大枠にせよわかってきたのはせいぜいこの1世紀半。しかしいま、仕組みの一部分は、細胞・分子の言葉でも語ることができるようになった。他方また、一度できた個体の一部分から再び全体ができる再生も、生殖と同じ道筋をもつという理解も進んできた。
現場の医学では再生医療に突破口として期待がかかる。ひろく各種の生物の再生研究にも関心は高いが、動物と植物ではずいぶん様子が違い(植物の挿し木、株分けなど)、概して再生のむずかしい動物でも一部の種は目覚ましい再生能力をもつ(トカゲの尾やイモリの脚の再生)など、謎も多い。
今回は入門的な案内として、(1)有性生殖と再生の共通性とはどういうことで、どの程度理解が進んでいるのか、(2)再生では、ある分化状態で収まっている細胞がその状態を脱して(脱分化)再度増殖を始めることが必要で、動物と植物でこの事態の生じやすさに大きな違いがあるように見えるのだが、違いは本質的なものか、乗り越え可能なのかなどの問題にどこまで迫っているのか等の現況を、なるべく分かりやすく紹介したい。(長野 敬)
◆プログラム
15:00 ~
挨拶 長野 敬 (河合文化教育研究所 主任研究員)
導入 長野 敬
遺伝学の辿った道── 生命の驚異から、分子の仕組みへ
15:20 ~
講演 仲野 徹 (大阪大学大学院生命機能研究科 教授)
エピジェネティクスとは?── 動物における生殖とリプログラミング
16:20 ~
講演 杉山宗隆 (東京大学大学院理学系研究科附属植物園 准教授)
再生しやすさの理解を目指して── 植物からのアプローチ
17:20 ~
質疑応答
◆生物学シンポジウム開催にあたって 長野 敬◆
今年は「ひつじ年」ということから、かつて「ドリー・ヒツジ」がNature誌のカバー・ストーリーになったのを探しだして、年賀状の図柄に配した。雌ヒツジ成体Aの乳腺から取り出した細胞を、培養して受精初期の状態にして、その細胞核を、べつの未受精卵に移植し、これを仮母親となる雌ヒツジBの体内で育てたものがドリーで、これは遺伝子構成がAと同じの、いわゆる「クローン」である。誕生は1996年の夏で、論文の掲載は翌97年2月だった。
それからすでに20年ちかくが経過して、生命に特有の生まれる、育つなど──ひろく生殖や発生と言われる分野では、目ざましい展開が進んでいる。農業などのバイオテクノロジー、そして医学の分野では医療の新しい方向が開けている。とりわけ新しい医療の方向性として筆頭に挙げられるのは、周知のips細胞だろう(名付け親は2012年ノーベル賞受賞の山中伸弥京大教授)。Sは「幹細胞(stemcell)」を意味している。未分化の細胞から筋肉、神経、血球など全身の構成部品に分かれ、特殊化してゆく「分化」の出発点になるのが、幹細胞である。受精直後の卵は完全な幹細胞であり、個体発生が進むにつれて、細胞が分化の進んだものになってゆくのが、正常な姿だ。
(1)個体発生の経過では細胞は未分化→分化へと進行する。(2)ips細胞では、成体で分化してしまったたとえば皮膚の細胞を取ってきて、特別の4種類の遺伝子を与えると、それが初期の未分化状態に戻すことができて、その後に適当な処理を施すことによって再度、目指す医療目的に使える細胞へと再分化させられる。(3)自然界での再生過程でも、トカゲの尾でそれなりに分化していた細胞が、切断をきっかけとしていったん未分化へと若返り、再度尾の部分の分化した細胞になってゆく。
こう考えると、未分化から分化へということを鍵として、いま医療にも利用が試みられはじめた「幹細胞」と、自然界での再生過程と、さらに有性生殖の進行一般を、同じ目線で捉えることができるのではないか。こうした趣旨で解説的な入門向けの小シンポジウムを、いま計画している。
◆長野先生にシンポジウムのテーマに添った図書を紹介していただきました◆
◇『捏造の科学者──STAP細胞事件』須田桃子 文藝春秋 2015年
「近況」にも入門的な小シンポを計画中と書いた。これを企画した一つのきっかけは、1年前に突発した「STAP細胞事件」にあった。全国の報道を巻きこんだこのつむじ風に巻きこまれたことは、弁解の必要はないだろう。難解な理論などでなく事実としていきなり報告されれば、最初の反応として、その通りに受け入れて「すごいですね」と言うほかない。お膝もとの京大でiPS細胞の生みの親、いまでも研究の中心人物である山中京大教授も、最初の意見は、「本当ならばたいへん有望な突破口」というものだった。これが「本当」でなかったことは、引き続いて明らかになって、その経緯は興味本位の報道の餌食になった。ただしこの本は、そうした読み捨て情報でなく、最初からかかわってきた本流の科学記者が一件顛末を、最後は「事件」に巻き込まれる形となった笹井教授(山中教授の同僚、そして競合相手でもあった)の自殺まで、しっかりあとを追い、記録したもの。STAP細胞はやっぱり、「あります」などの幻想を抱く対象ではない。いま予定しているシンポでも、「事件」を取り上げるつもりはない。それでも細胞の未分化から→分化への動きは、世代ごとに当然のこととして何億回も繰り返されてきたのは「事実」なので、反復をどんな瞬間でとらえ、医療にも応用してゆくかは、「事件」が落着した今後も生物医学技術の腕前にかかっている。
◇『エピジェネティクス──新しい生命像をえがく』仲野徹 岩波新書 2014年
卵の受精から、細胞の分化につれて個体の完成までの経過が「世代ごとに当然のこととして」繰り返されてきたことは、上にも書いた。事実はその通りだとしても、未分化→分化の仕組みの「どのようにして」を、遺伝子と関連づけて語れるようになったのはほぼこの10年ほどのことだ。受精のさいには、両親の遺伝子のひと揃い(ゲノム)が受精卵に持ちこまれる。発生が進むにつれて、ゲノム全体のうちから一部分づつが違う細胞で機能を発揮するのだろうという大まかな見通しは、ずっと抱かれていたのだが、具体的な仕組みの筋書きが見えてきたのだ。遺伝子(ジーン)自体の作用(ジェネティクス)でなく、世代ごとに手直しを受けた「のちの」作用ということで、エピジェネティクスという呼びかたが登場してきた。
特徴のある現象の一つに、遺伝子の「メチル化」がある。DNAの4種類の単位ヌクレオチド塩基のうち、シトシン(C)にメチル基が結合すると、その部分が不活性、つまり細胞の分化に必要な仕事に役立たなくなるのだ。この新書は、現状を案内してくれる手頃な入門書となるが、全身の部位ごとの細胞でメチル化の反応を指令しているものは何かということ一つをとっても、本格的な理解はこれから。すでに挙げられた成果と今後の宿題の両方にとって、本書は手頃な案内書となっている。
◇『生物学の旗手たち』長野敬 講談社学術文庫 2002年
現代生物学先端では、エピジェネティクスのように、これからの大きな展開で一翼をになうと期待されるものもあり、これと関係はふかい分野だが、勇み足によって、世間を騒がせた「事件」を引き起こすものでしかなかった STAP(これは元来、完全な幹細胞が得られるとされた処理を指していたので、世間に流布してしまったSTAP「細胞」という言い方は、おかしいのだが)の成功をとなえた研究者のような例も見られ、とにかく賑やかなことで、20世紀後半が二重らせんの成功で沸き立って生物学の時代と言われたのとべつの意味というよりも本来の意味で、21世紀は生命科学の時代と呼べるだろう。
しかしその賑やかさに隠されてしまいがちになるが、生物学の開祖であるアリストテレスから20世紀の初頭あたりまでにも、仕事を積みかさねてきた多数の人がいた。ダーウィンなどは別格としても、メンデルが数十年のタイム・ラグで現代の遺伝学に接続して名前が残るような幸運もある。ともかくどの人物も個性的で面白い。生物学の進行のなかで、そうした人たちが掲げていた目立つ旗じるしを横から眺めることで、生物学に新しい興味も見出されるのではないかという思いから書いたもので、ここでの何倍もの人たちを、取り上げればよかったと思いながら、そのままになったのは、果たせなかった宿題ということになりそうだ。
◇『新種発見に挑んだ冒険者たち』リチャード・コニフ(長野敬+赤松眞紀 訳)青土社 2012年
これも科学史の本だが、量質ともに自分の書いた文庫本と並べて挙げるのが気が引けるような迫力。訳者あとがきに「種の研究における外史列伝」と記した。種の発見に熱中する変人の銘々伝とも言える。フランスの宣教師アルマン・ダヴィッドは19世紀後期に中国で布教活動と種の発見に専心し、パンダの学名に命名者として名前を残している(この黒白熊の種小名はメラノレウカで、メラノは黒、レウカはロイコつまり白)。最初は敷物の毛皮パンダを見て、つぎに生きた成獣も手に入れた。「胃が木の葉で一杯」なことも記しているから、死獣を解剖したのだろうが、そのことには記述がない。べつに隠すつもりでなく、保護とか動物生命の尊重などは関心外らしかった。新種の発見は、創造主をたたえる追加の寄与を自分も果たしたという意味でのみ、彼に喜びをもたらしたのだろう。
大銀行家の嫡男のウォルター・ロスチャイルドも列伝の一人で、銀行の家系からは記載が省かれ、その蒐集はそっくり、あるいきさつでアメリカ自然史博物館の手に渡った。しかし伝記を書いたメリアム・ロスチャイルドは、一族の銀行家たちが紳士録に載せられただけで忘却のかなたに霞んでしまうのに、ウォルターは多くの新種のうちに名前をとどめていると評している。生物相手のこういう「文化的」な活動が、経済や政治よりも結局は後世に残るという読後感が、本書や上記『旗手たち』から得られればと思う。