ドストエフスキイ研究会便り(23)
今回の「研究会便り (23)」の内容は以下の通りです。
《講演・研究発表の原稿化》
★「ドストエフスキイ研究会便り」では第15回目から、
かつての講演や発表を原稿化し,掲載しています。
★今回は2005年に行われた
シンポジウム(日本キリスト教文学会・第34回全国大会、札幌)での発表記録を掲載します。
シンポジウムは「文学における<虚無>」というテーマの下に行われ、
私は発話者の一人として「虚無としての腐臭」と題し、
ドストエフスキイにおける虚無・ニヒリズムとその超克について問題提起をしました。
発表から既に20年近く。
今からすれば思索や論述の未熟さ、文体の堅さなど、不満なところが少なくないのですが、
内容的には前回の「研究会便り(22)」(「デカダンスの光芒」)と直結するものであり、
皆さんの継続的思索の参考になればと考え、掲載を決めました。
★40年近く前のシンポジウムと、20年近く前のシンポジウム ――
これら二つの問題提起を続けて読んで頂くと、
ドストエフスキイが人間と世界とその歴史の奥深くに潜む
デカダンス、或いは虚無・ニヒリズムの問題、
殊に「死と復活」の問題と如何に真剣に向き合い、思索を続けた作家であったかがよく分かると思います。
私は彼の思索は、
『存在と時間』に於いて「死」の問題を正面から考察した哲学者ハイデガーのそれを
遥かに凌ぐ深さを持つものであると思っています。
今回のシンポジウムでは、この「死と復活」の問題を、
『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老と『罪と罰』のマルメラードフ、
これら二人の死と腐臭を前にしたアリョーシャとソーニャに焦点を絞って検討することから始め、
続いて『白痴』から『夏象冬記』へと創作の順序を逆に辿る形で、
「死せるラザロ」と「死せるキリスト」復活の問題が、
ドストエフスキイ文学に於ける一貫した中心軸であったことを確認してゆきます。
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