牧野 剛 特別研究員 を「偲ぶ会」
牧野 剛 という『ひと』
◆ 牧野 剛 特別研究員 を「偲ぶ会」
去る5月20日に急逝した
牧野 剛 特別研究員 を「偲ぶ会」が東京と名古屋でおこなわれました。
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「牧野さんを偲び語る会」(2016/9/25) 於名古屋
「牧野剛さんを偲び語る会」 趣旨
人間というものに尽きることのない興味を抱き、多くの人を愛し愛された牧野剛さんが、この五月二十日に逝去されました。満七十歳でした。この間は闘病中で したが、それでも彼のなかにはまだやるべき多くのことやアイデアが生き生きと息づいており、外に出るのを待ち望んでいました。その意味では、無念な早すぎ る死ではありましょうが、逆に言えば、やりたいことをやり、全力疾走した充実の人生だったともいえます。
牧野さんといえば、ご存じのよう に、何よりもまずは河合塾の名物講師として有名でした。八〇年代に「予備校文化」というものが、それまでの公教育や大学の既成の制度の間隙を縫って世の中 にクローズアップされてきた時、それを他予備校に先がけて河合塾で率先して創り上げてきたのも彼でしたし、そこから近代教育と近代学問の矛盾と制度疲労を 突き出すことによって、それを一過性の流行に終らせずに多くの有志の講師・職員とともにその内実を作り、広く予備校文化を文化たらしめようとしたのも彼だ と言えるでしょう。
それだけでなく、名古屋オリンピック誘致反対運動や反愛知万博市民運動などこの地のさまざまな市民運動をも牽引し、ついには自分から名古屋市長選や愛知県知事選に立候補してしまうという、実にエネルギッシュな人でもありました。
彼の独特なところは、すでにある眼前の世界を前提にものごとを発想するのではなく、それを超えたもっと大きな文脈でものごとを考えようとするところにありました。だからこそ、そこから新たな思いがけない流れを呼び込むこともできたのだと思います。
大学入試や教育の問題も、戦後のこの日本列島という狭い時空間の枠内だけで考えるのではなく、現在のアジアの国々が抱える問題、そして世界が抱える問題と突き合せながら、その広い視野のなかで近代独自の問題として考えていくという具合でした。
一九九六年に、河合塾とZ会の主催で北京大学付属高校やソウルの大成学院などにも呼びかけて実施された「日・中・韓の大学入試統一試験を社会的・文化的に 比較分析する」というこれまでになかった三国間の衛星シンポジウムも、彼のそういう一国の入試制度を超えた発想から実現されたものだと言えます。
牧野さんといえばたいへんふり幅の大きい人で、一見豪放磊落でありながらシャイで律儀であり、反近代主義者として土着的なものに心を寄せながら一方で強固 な近代合理主義者であり、表向き左翼革新的でありながら実は保守的体質をも併せ持つというふうに、常に相反する両極のあいだを大きく揺れ動いている人でし た。このふり幅の大きさそのものが牧野剛という人間だったとも言えますし、この落差が人を魅了し、また反発をも呼び起こしたのだともいえましょう。
ただ一つ変わらなかったのは、社会の矛盾や暴力にさらされ、そういう不本意な場に立たされている他者への優しい想像力と、個人の個性や自由を圧迫してくる ものに対しては、常に闘おうとする批判精神のありようでした。それが、彼の思想と行動の根幹を作っていたと思います。その河合塾内での具現が、ベーシッ ク・クラスや大検コース・コスモだといえます。
その牧野さんが亡くなって、早や二か月がたちました。残された私たちは哀惜の念とともに現在の己を問いつつ、氏のご冥福をお祈りしたいと思います。
それぞれの時代や場での牧野さんとの出会いや思い出を持っておられる多くの方々と共に集い、牧野さんのことを語り合うことを通して、これからの未来を考えていくことができればと思います。
ご縁のあった方々とぜひいっしょに最後のお別れをしたいと思います
「牧野剛さんを偲び語る会」発起人一同
牧野 剛さんを語る会
13時より開会。一分間の黙祷の後、会場を埋めたおよそ250名の方による献花がおこなわれました。
その後、牧野さんが河合塾で果たした大きな役割を河合弘登理事長が話し、続いて河合文化教育研究所木村敏所長が、文教研設立に寄与した牧野さんを振り返 り、エピソードとして河合臨床哲学シンポジウムへいつも生徒を連れてくること、中動態への関心を示していたことに触れました。また、アダム・スミス研究で 著名な水田洋さん(学士院会員97歳)が主に市民運動での牧野さんとの思い出を語り、最後に河合塾講師の青木和子さん(日本史科)が、教育産業としての予 備校だからこそできることにこだわった牧野さんの想いに応えることは予備校文化の検証をすることではないでしょうかと締めくくりました。
そして、遺族から謝辞があり、会はいったんここで中締めとなりました。
会場には、河合塾での授業風景や選挙演説での光景、日中韓の統一テストの新聞記事、文教研の関連記事等々がコスモの教え子の人たちの協力もあって掲示されました。
また、大きなスクリーンでサテライト授業「スーパー講義」が映し出されて、たくさんの人たちが見入っていました。
その後「語る会」は、3時まで牧野さんに縁があった人たちが、司会にうながされて次々とマイクを握って牧野さんとの出会いやエピソードを語り続けていました。
「牧野剛さんを偲ぶ会」は隣に会場をうつして開かれました。
ここでは、長年の盟友と言うべき河合塾の茅嶋洋一講師(小論文科)が献杯の発声をし、引き続き、黒田光太郎さん(名古屋大学名誉教授)の司会により、たくさんの方々が挨拶に立ちました。
なお、ご遺族からは、牧野さんの原点がそこに存在するという思いが伝わる
『原点としての恵那の子ども時代』 発行あるむ が渡されました。
◆当日の朝日新聞(2016/9/25)
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「牧野剛氏を偲ぶ会」(2016/9/4) 於東京
「牧野剛氏を偲ぶ会」趣旨
40年という長きにわたり、河合塾で教鞭をとられてきました牧野剛さんが、本年5月20日、誤嚥性肺炎のために逝去されました。
牧野さんは5年ほど前に脳卒中で倒れられ、右手、右足が不自由になり、リハビリを続けてきました。身体が不自由になっても牧野さんの批判的精神は変わら ず、社会の動向から目を離さず、鋭い意見を発していました。特に文部行政の2020年度大学入試改革に対しては問題形式や採点方法まで、ご自分の案を提示 して批判するなど、その立ち位置は、以前と変わりませんでした。
牧野さんは、予備校の400人教室で立ち見が出るほどの人気講師とし て 教壇に立っていました。しかしその批判的精神は予備校という枠にはおさまりませんでした。名古屋オリンピック誘致反対のためのハンガーストライキや、ある いは名古屋市長選・愛知県知事選挙に出馬するなど、牧野さんのエネルギーは、我々がいつの間にか動かされてしまうほどの力を持ち、それはまた様ざまな市民 運動を牽引してきました。
河合塾では、牧野さんは「予備校は穴ぼこ的存在(6・3・3・4制の枠外)である」だから存在意義がある し、 だからこそ自由があるのだと浪人生に呼びかけ、授業だけに止まらず、毎年100人以上の浪人生を連れて木曾駒ヶ岳に登山するなど、また、映画や書籍の製 作、作家・ミュージシャン・ジャーナリスト・文化人などを招いてのイベントと、精力的に活動をしていました。そしてベーシッククラスや、現在、名古屋・東 京にある高校中退者コース・コスモを創立するなど、河合塾で革新的な提案をし、実践してきました。
「予備校共和国を作る」というのもその一つですが、それは他の予備校講師との連帯を生み、関係を深めました。かつて駿台予備学校の最首悟氏が「牧野は単な る予備校を、予備校文化まで高めた」と 発言していましたが、牧野さんは、文化の拠点として、数学者や哲学者をはじめ各分野の著名な知識人を招き入れ、河合塾に河合文化教育研究所を立ち上げまし た。
発想力豊かで、行動的で、そして人いちばい若者の未来を考え、若者に寄り添っていた、その牧野さんが亡くなられて2か月以上が経 ちました。私たちは、牧野さんが予備校の場で実践してきたこと、そして予備校文化とはなんだったのか、今あらためて考えてみたいと、東京コスモ関係者中心 に 「牧野剛氏を偲ぶ会」を開くことに致しました。
発起人
◇新宿の「東京コスモ」には100名を越える方々が集まり、
「牧野さんを偲ぶ教室」
「牧野さんと語り合う教室」
「牧野さんと出会う教室」
「牧野さんと旅する教室」で、それぞれが牧野さんを想い、新たな出立を考える一日となりました。
当日の模様をご案内します。
・栞
牧野さんと出会う教室
牧野さんの遺影の前には、
牧野さんと関係のある本、
牧野さんから影響を受けた本、
牧野さんに読んでもらいたい本など
献本がされていました。
いずれ、牧野文庫を作る予定とのことです。
牧野さんのメッセージ・カードが渡されました。
◆毎日新聞記事(2016/9/8)