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丹羽健夫『わたしが選んだこの一冊』

丹羽健夫

『わたしが選んだこの一冊』

 

・2010年 『1973年のピンボール』村上春樹 著 
・2011年 「夢十夜」『夏目漱石全集』夏目漱石 著
・2012年 『晩年』太宰治 著著
・2014年 『深海の使者』吉村昭 著
・2015年 万葉秀歌(上・下) 斎藤茂吉 著



2010年度

『1973年のピンボール』
村上春樹 著
講談社文庫 

 「僕」の周辺の話と「鼠」(という青年)の話が交互に出てくる。その間に特別な脈絡はない。たとえば「僕」の周辺の話をひとつ。
 
 僕の部屋にいつの間にか双子の姉妹が入り込んで暮らしている。
 
 ある日電話局の男がやってきて、配電盤を取り替えるという。双子は配電盤ってなにと聞く。工事にきた男は「ん…つまりね、電話の回線が何本もそこに集まっているわけです。なんていうかね、お母さん犬が一匹いてね、その下に仔犬が何匹もいるわけですよ。ほら、わかるでしょ?」
 
 「?」「わかんないわ」 
 「ええ…、それでお母さん犬が死ぬと仔犬たちも死ぬ。だもんで、お母さんが死にかけるとあたしたちが新しいお母さんに取替えにやってくるわけなんです。」
 「素敵ね。」「すごい。」
 「さて配電盤を捜さなくっちゃ」と男。
 「捜す必要なんてないわよ」「押入れの奥よ。板をはがすの。」と双子。
 
 ひどく驚いた僕。「ねえ、なぜそんなこと知ってる?僕だって知らなかったぜ。」
 「だって配電盤でしょ」「有名よ」と双子。
 
 交換を終わった男は、古い配電盤を忘れていく。双子は一日中配電盤で遊んでいる。
 配電盤が死んだ。

 双子がお葬式をしたいと言うので、雨の日曜日僕は車を走らせて、双子と配電盤を乗せて、何時間もかけて山奥の貯水池に向かう。
 
  配電盤の水葬の前に双子はお祈りをしなきゃ、と僕にせがむ。僕は仕方なく現在読み中のカントの『純粋理性批判』の一節を引用する。
 
  「哲学の義務は、誤解によって生じた幻想を除去することにある。…配電盤よ貯水池の底に安らかに眠れ。」
 

  これだけの話だ。
 
  エッ、そんなもの読んで何か得をするものがあるのかって?たとえば成績が上がるとか偏差値が上がるとかかい?
 ない。
 
 ただし何というか、エーテルで湿らせたガーゼで、脳や心の細胞を丁寧に拭いてもらったあとのような、不思議な清涼感をともなった集中力が身についた感じにはなるよ。



 


2011年度

「夢十夜」 『夏目漱石全集』
夏目漱石 著
筑摩書房

 第一夜から第十夜までの十の夢の物語である。

 第一夜は美女と死の夢である。

 仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤のある眼で、長い捷に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。
 
 しぼらくして、女がまたこう云った。「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」

 「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」「百年待っていて下さい」


 あとは読んでのお楽しみ。しかし、なんとも美しく彩られた絵画的な夢であることか。

 第二夜はお寺で悟りが開けずあせり狂う話。あせる夢って誰でも見るよね。そのあせりの、いや増していくステップが見事に描かれる。序破急という言葉がそのままあてはまる。幻想的で重厚。

 第三夜と第四夜はすこし怖い、不気味さが漂う。第六夜は運慶が登場する彫刻の話だが、落ちが奇想天外。しかしいかにもありそうな話で深く頷いてしまう。

 第八夜は床屋で調髪中に、目の前の鏡という限定された平面に次々に現れる人や物の話。 

 第九夜はお百度を踏む婦人の話。悲しい。最後の第十夜は女好きで善良で正直者の庄太郎が、通り掛かりの美しい女性について行ってしまって、七日も帰らなかった話。その七日間になにが起きていたのか。十の夢のうちで一番コミカルで、いつまでも思い出しては笑ってしまう話。

 この十の夢の話は文庫本サイズで頁にして僅に30頁そこそこである。つまりひと夢3頁である。たったそれだけのスペースでひと話、それも並々ならぬ展開のある話を作り上げてしまう漱石はさすがである。そしてこれらの夢物語は漱石が実際に見た夢かどうかは分からない。しかし一つひとつの話が「ああ、夢ってこういう風だよね」って思わず頷いてしまう、現実と夢幻のすれすれを舞っているめである。

 本書の解説には、「(詩人で作家、翻訳家の)伊藤整が『人間存在の原罪心理』を主題にしたものと解釈して以来、幾人かの評論家によって、この小品のうちに漱石内面のカオスを象徴する因子を見出そうとしてのこころみがなされている。」とあるが、なにもそんなに深読みしなくても、とても面白いし心動かされるというだけで十分じゃないかと思ってしまうのである。



 


2012年度

『晩年』
太宰治 著
新潮文庫 

 太宰治の短編集『晩年』の中におさめられた「思い出」という一編がある。彼の4歳から中学最後の冬休み(18歳)までの思い出を、みずみずしく書き綴った自伝である。いつもの自虐的で感傷的な太宰でなく、愛らしく光輝く太宰がそこにいる。

 太宰治は青森県でも有数の大地主の家に生まれた。幼児期に一緒に暮らしていたのは曾祖母、祖母、父母(東京にいることが多かったらしいX兄3人、姉4人、弟1人、叔母、叔母の娘4.核)計17人。これに複数の女中(お手伝いさん〉と書生たち、つまり大家族であったのである。お金持ちだけあって定紋のついた黒塗りの馬車や饒が家にはあった。

 「私は姉たちには可愛がられたいちばん上の姉は死に、次の姉は嫁ぎ、あとの二人の姉はそれぞれ違うまちの女学校へ行っていた。私の村には汽車がなかったので、三里ほど離れた汽車のあるまちと往き来するのに、夏は馬車、冬は橇、春の雪解けの頃や秋のみぞれの頃は歩くより他なかったのであ.る。姉たちは橇に酔うので、冬やすみの時も歩いて帰った。私はそのつどつど村端れの材木が積まれてあるところまで迎えに出たのである。日がとっぷり暮れても道は雪あかりで明るいのだ。やがて隣村の森のかげから姉たちの提灯がちらちら現れると、私は、おう、と大声をあげて両手を振った。」

 中学は生まれ故郷の金木を離れ、青森市の青森中学に下宿をして通うのだが(当時の中学は五年制で現在の中学と高校を合わせたようなものであった)、中学に入ってから「スポオツ」をやる話が出てくる。それもこの年齢では誰でもありがちなことであるが、自分の容貌に劣等感を抱いたからだ。特に顔色が悪いことを人にも言われ何とかしようと、暑いときには、学校の帰りしなに必ず海で泳ぐ、また自分で「100米の直線コオス」を作りひとりでまじめに走った。太宰君やるではないか。

 国語の時間に先生から聞いた赤い糸の話「私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれていて、それがするすると長く伸びて一方の端がきっと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられているのである、……そうして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまっているのである」この話を秋のはじめの或る月のない夜に、港の桟橋へ出て、海峡をわたってくるいい風にはたはたと吹かれながら、弟に語って聞かせるのも美しい情景である。

 そして女中みよへの片思い。思い込みが激しく「私はみよから打ち明けられるのを待つことにした。」などと独善的に思ったりするのである。そして中学の友達にみよを見せるために、わざわざ金木の家に連れてきたりする。そんなに思いを寄せていたみよであるが、中学最後の冬休みに帰省してみると、みよは里にもどって居なくなっている。

 文庫本の中のたった50ページの短編だが、若草の香りがぷんぷん匂う太宰治の少年期の、宝石をちりばめたような美しく愛らしい話が次々に出てくる小品である。ご一読を。

 





2014年度

『深海の使者』
吉村昭 著
文春文庫

 第二次大戦における日本海軍の潜水艦にまつわる話である。
 
  開戦前、潜水艦は艦隊決戦に際して敵の艦隊にダメージを与え、艦隊決戦を有利にすすめることが期待された、しかし時代は日露戦争の日本海海戦的な艦隊決戦などは過去へ押し流し、航空機の時代へ移っていた。大戦中、目本の潜水艦が米国の軍艦を魚雷攻撃で撃沈したのは、航空母艦ワプス、重巡洋艦インディアナポリスなどで、おおかたの期待に反して戦果は少ない。米英の護衛艦の対潜水艦護衛能力が、大西洋におけるドイツ潜水艦との闘いで、日ざましく向上していたからである。そして日本の潜水艦の役割は、戦争前半に手をひろげたガダルカナルやニューギニアなど南方の島々に対する食糧、弾薬の輸送が主となり、「丸通」に成り下がったと生粋の潜水艦乗りたちを嘆かしたものである。
 
 しかし丸通にも地方回りとはちがって、とんでもなくでかい仕事が舞い込んだ。同盟国ドイツへの人員物資の輸送である。
 
 第二次大戦は、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国と、米国・英国・ソ連などの連合国との闘いである、米英は大西洋を一跨ぎすれば輸送船で人員物資を送れるが、日本とドイッの問はそうはいかない。日本からドイツへの連絡ならばまず東シナ海を南下し、マラッカ海峡を抜けてインド洋を南西に通り抜け、アフリカ大陸南端を迂回して大西洋をひたすら北上し、ヨーロッパの北に回りこまなければならない。それも戦争の後期にはインド洋、大西洋は米英海軍の制海権下にあったので洋上航行は不可能である。そこで潜水艦の登場となるのである。
 
 日本からドイツへの輸送物資はマラリアの薬のキニーネ、錫、ゴムなどの南方資源である。ドイツから日本へはダイムラーベンツ社の魚雷艇用内火発動機、電波探知器、20ミリ四連装機銃、そしてドイツの誇る潜水艦であるUボートそのものなどである。
 
 日本からドイツ占領下のフランス、ロリアンまでの距離はおよそ2万海里、日数は約百日。途中、米英海軍艦艇の攻撃を受け犠牲を出しながら決死の輸送作戦が続けられる。昼間は敵の発見を避けるため潜航して文字通り「深海の使者」となって電動力で航行し、夜は浮上してディーゼルエンジンを駆動して進み、蓄電と空気の補給をする。
 
 ドイッ側から同盟国日本へのUボートによる輸送も、同じように行われる。
 
 その中で胸を打つ悲劇がある。二人の日本人技術将校を乗せたUボートが、日本に向う途中の昭和20年5月7日、本国のドイツが降伏し、Uボート艇長は米軍に艇を引き渡す。二人の日本海軍技術将校とは、友永、庄司両中佐のことである、二人は日本が世界に誇る酸素魚雷などの技術をドイツに伝え、日本にはないドイツの進歩したレーダー技術などを、持ち帰ろうとしていたのである。
 
 しかしドイツが降伏したとき、祖国日本は未だ戦闘継続中であった。Uボートに同乗していた二人の日本人将校は「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦訓に従って、従容として自決する。Uボート艦長は鄭重に二人の死を弔う。
 
 ユーモラスな話もある。駐ドイツ日本大使館から東京に作戦について電話をするとき、盗聴を防ぐため、たまたま話し手同士が鹿児島県人であったので、鹿児島弁で話すのである。当時の生粋の鹿児島弁は、他の地方の日本人にはほとんど理解が困難であったのである。ましてや外国人の理解は不可能である。
 
 著者の吉村昭は実直な人であり、事実にこだわる。この作品も事実を基にしている迫力がある。吉村は第二次大戦を題材にした作品を、本編のほか数編書いているが、その後ふっっり書かなくなってしまう。理由は証言者が高齢で時間とともに亡くなってしまったからだそうだ。

 

 

 

2015年度

万葉秀歌(上・下)
斎藤茂吉 著
岩波新書 

 万葉集の短歌約四千二百首の中から、四百余首を本書の著者斎藤茂吉が選び、懇切な解説をつけている。以下そのうちのいくつかを鑑賞しよう。
 
 なお著者斎藤茂吉は、精神科医にして作家の斎藤茂太、北杜夫兄弟の父。


 渡津海の豊旗雲に入日さし
  今夜の月夜清明けくこそ  天智天皇   

 <わたつみの とよはたぐもにいりひさし こよひのつくよ さやけかりこそ>

 我々がテレビにかじりついて、どうでもいい巷の瑣事や事件に夢中になっている時刻である。外では日々に新たな自然の壮大にして雄勁な、この歌のような大叙事詩がくり広げられているというのに。


 あかねさす紫野行き標野行き
          野守は見ずや君が袖振る    額田王
 
〈あかねさす むらさきぬゆき しめぬゆき ぬもりはみずや きみがそでふる〉
 
 アブナイ歌である。額田王(女性)は大海人皇子と夫婦であったが、後に天智天皇に召された。天智天皇が狩に出たとき付きそっていた額田王に対し、随行していた大海人皇子がサインをしたという意である。アブナクないか。いまなら週刊誌ものだが、万葉の昔はおおらかだったのだ。


 吾はもや安見児得たり皆人の
        得がてにすとふ安見児得たり    藤原鎌足
 <われはもや やすみこえたり みなひとの えがてにすといふ やすみごえたり>              

 ヤッタゼ、得意の絶頂、素直な喜び。安見児とは女性の名前である。いまの世でこんなにあからさまによろこべるか。こんなに喜べば、あいつ馬鹿かと思われるのが関の山だろう。


 しらぬひ筑紫の綿は身につけて
        いまだは着ねど暖けく見ゆ      沙弥満誓
 <しらぬひつくしのわたはみにつけて いまだはきねど、あたたかけくみゆ>

 しらぬひは筑紫の枕詞、筑紫は九州。九州の綿は評判は聞いていたが、なるほど暖かそうだ。着道楽の妬みの歌か。


 石戸破る手力もがも手弱き
        女にしあれば術の知らなく     手持女王 
 <いわとわるたぢからもがもたよわき をみなにしあれば すべのしらなく>
     
  亡くなったあの人のお墓の石を割ってでももう一度会いたいが、女の私にはそれも出来ない。半い哀しい。そして熱い。


 世の中は空しきものと知る時し
       いよよますます悲しかりけり       大伴旅人    
 <よのなかは むなしきものとしるときし いよよますます かなしかりけり>
      
 あまりニヒルにならないで。旅人さん。


 世間を憂しと恥しと思へども
      飛び立ちかねつ鳥にしあらねば      山上臆良   
 <よのなかをうしとやさしとおもへども とびたちかねつ とりにしあらねば>

 我慢我慢、そのうち良いこともある。


 術もなく苦しくあれば出で走り
        去ななと思へど児等に障りぬ         山上臆良
 <すべもなくくるしくあればいではしり いななともへどこらにさやりぬ>            

 昔も今も子は宝にして足枷、臆良さん頑張れ。


 1500年の歳月を経ても、人間の日常の情意はまったく変わっていないことを痛感させる。一首一首が「そうだ、そうだ」「うん、うん」と頷かせて倦むことをさせない素敵な本である。