中川久定『わたしが選んだこの一冊』
『わたしが選んだこの一冊』
・2010年 「退屈な話」『六号病棟・退屈な話・他五篇』チェーホフ 著 (松下裕 訳)
・2011年 『野火』大岡昇平 著
・2012年 『カラマーゾフの兄弟』(1、2、3、4、5) ドストエフスキー 著 亀山郁夫 訳
・2013年 『「コーラン」を読む』井筒俊彦 著
・2014年 『哲学の三つの伝統』他十二篇 野田又夫 著
・2015年 『ドゥイノの悲歌』リルケ 著 手塚富雄 訳
2010年度
「退屈な話」『六号病棟・退屈な話・他五篇』
チェーホフ 著 (松下裕 訳)
岩波文庫
「退屈な話」を私が初めて読んだのは、新潮社『世界文学全集』の1冊『露西亜三人集』によってでした。この本のがっしりした手触りや、くすんだ表紙の色、そして特に、英語からの重訳ではあるものの、きわめて繊細な文体―これらすべてが私の印象と切り離せないものになっています。この本は大事にしていましたので、いつも身近に置いていたのですが、最近蔵書を大規模に整理した際に、どこかに紛れこませてしまっています。いずれにしても、新潮社版の古い翻訳を皆さんに推薦したとしても手に入らないでしょうから、ここでは岩波文庫版をあげておきます。
岩波版の翻訳で今回もう一度「退屈な話」を読み直してみました。最初に私が秋葉訳(名前はひょっとすると間違っているかもしれません)のページを繰っていた15歳の秋と、なにか異なった印象を受けとったでしょうか。ちなみに私は、現在78歳です。あれ以来、63年の歳月が、あっという間もなく過ぎさってしまったのです。
私の自覚的な読書体験は、小学校の1年生から始まりましたが、本当の読書の夜明けは、15歳の時に始まったように思われます、物理の担当だった亀谷孝久先生によって。亀谷先生は、大学の工学部を卒業してから、日本電装(現デンソー)という会社に就職するまでの1年半を、私たちの旧制中学で教えていたのでした。
物理などに関心を持たない大部分の生徒たちは、授業を聞きたくないので、いつも先生が最近読んだ本、見た映画について話すようにせがみました。自分のことになると、いつもはにかみを隠せない、学生服に丸坊主、黒縁眼鏡の奥から知的な眼差しだけがじっと前を向いて輝いている、この新米の先生は、生徒にせがまれるままに、むしろぽつりぽつりと、いろいろな話をしてくれました。決して多弁でも、雄弁でもなく、決して自分の考えを押し付けることも、断定を下すこともありませんでした(もしそういう気配があれば、私はすぐに警戒し、反発したことでしょう)。それは、独白、あるいは自問自答のようなものでした。そのすべては、私の心の底にまで届き、今でもそこに刻みこまれているように思われます。彼が話してくれた本を、私は古書店で買い集めたり、彼からも貸してもらったりしました。「退屈な話」も、彼に読後感を聞かせてもらって、古書店で手に入れた本の中の1冊でした。
この短編小説の主人公は、モスクワの大学の医学部名誉教授ニコライ・ステパーノヴィチ。国内で彼と交友関係を持たなかった学者はいないほどで、国内のあらゆる大学と3つの外国の大学の職員録にも名前がのっているという設定になっています。彼は現在62歳、はげ頭、総入れ歯、チック(顔面筋の不随意的収縮)、手も足もともに弱っていて、いつも震えています。不眠症なので、夜が明けてくれることだけが救いです。妻と娘リーザとは、いかがわしくて卑しい女たらしに過ぎないのに、クリミア地方の貴族で大地主の息子と称している青年グネッケルに夢中です。もう半年もすれば死んで行くであろうニコライ・ステパーノヴィチのことなぞ誰も気にかけてはいません。
ニコライは、亡くなった友人の1人から幼い女の子カーチャを託されていました。若い娘になった頃、彼女は南ロシアの劇団に入りますが、1人の俳優にだまされ、そのあともう1度モスクワに戻り、ニコライの近くに家を借りて、無為のうちに親の遺産を食いつぶしながら過ごしています。そんなにして、何もしないで親の遺産を使ってしまうのは良くないというニコライに、カーチャは、では、いったい私はどうすればいいのでしょうか、と言うばかりです。
老名誉教授の娘リーザはいずれグネッケルと結婚するはずなのですが、一応はクリミアで彼の身元を調べてきてほしいと、ニコライは妻に何度も懇願されます。とうとう重い腰をあげた老人は南ロシアまで旅をして調べた結果、グネッケルが平素口にしていたことのすべてが嘘だったことを知ります。ホテルの部屋でニコライが呆然と途方に暮れていたその時、誰かが扉を控え目にたたきます。モスクワにいたはずのカーチャでした。彼女はこう切り出します。「わたしはもうこれ以上こんなふうにしては生きて行けないわ ! 行けない! 」「わたしはどうすればいいの。おっしゃって、どうすればいいの」と。老人は答えられません。「ほんとうのところ、カーチャ、わたしにはわからないのだよ…」そしてこうつけ加えます。「わたしはもうすぐいなくなるんだよ、カーチャ…」しばらくしてカーチャは態度を変え、こうつけ加えます。「わたしはここへはちょっと寄っただけなの…。通りすがりに…。今日発ったのよ」「どこへだね」「カフカーズへよ」老人は本当はこう尋ねたかったのでした。―「するとなんだね、わたしの葬儀には来てくれないんだね」と。しかし彼女は老人の顔を見もせず、「他人の手のように冷たい」手を差し出します。そして、振り返りもしないで出て行きます。彼女は老人が目で追っていることを知っているはずです。しかし曲がり角でも振り返りませんでした。やがて自分が死にゆくことを知っているこの老人は、もう決して彼女に会うことはできないでしょう。「さようなら、わたしの宝よ!」「退屈な話」はここで終わっています。このあとを作者はどう続けることができたでしょう。
私がこの小説を初めて読んだ時、私には、およそ人生の経験と呼べるようなものは何もありませんでした。しかし今の私は、結婚もしていて、充分に生き、ニコライ・ステパーノヴィチと同じように大学の名誉教授にもなっています。身近な人の死にも、たびたび遭遇してきました。これらの経験は、亀谷先生に教えてもらった、そして先生の思い出と今でもしっかりと結びついてしまっているこの小説が、初めて私に与えた印象「深い悲しみ」に何か変化を加えたでしょうか。答えなくても、ここまで読んでくださった人なら、きっとお分かりでしょう。
私は70歳までの自伝を、4年前に出版しました。その中で、15歳の私にとっての「退屈な話」について約1ページをさいて語りましたが、それは私のこの最初の印象、決して救うことのできない「深い悲しみ」が、再びよみがえってきたからなのでした。ひとりの日本の批評家が、ある所で使っていた言い方を借りれば、「人間が1人で生きて死なねばならぬ或る定かならぬ理由」に、私たちの心が一瞬のうちに触れるからなのでしょう。
2011年度
『野火』
大岡昇平 著
新潮社(新潮文庫)
前大戦末期、フィリピンの叢林をさまよう一人の敗兵の目は、ひたすら前方を凝視し続けています。さまよっている間に、フィリピン女性を殺し、日本人兵士の肉を食しました。帰国した彼が気づいた時には、東京近郊の精神病院に収容されていたのです。けれども、彼のこの凝視と、見たものについての内省とは止みません。小説『野火』を紹介するとすれば、これで充分でしょう。
小学校一年生の私は、父に向って、ぼくは将来学者になりたい、と話しました。父はやや驚き、しかし喜んでいることは明らかでした。大学生になった十八歳の私は、学者になるには致命的な問題を自分が抱えていることに気づかざるをえませんでした。文章が書けなかったのです。私の頭は、批評家小林秀雄によって占領されてしまっていたからです。
たとえば小林は、作品『モオツァルト』の中で、スタンダールの文章を引用したあと、それが自らの心にどのように響いたかをまず語り、ついでモーッァルトとスタンダールとの和音を空想するにいたります。そのあと、精神界の諸事件が、どこで結ばれ、どこで解けて離れるか、というような事柄は、観察するよりも空想することに適しているのかも知れぬ、と続けます。
私の精神は、次々と視線の焦点を変えつつ、それら意識対象の間を飛躍していく小林の頭のようなリズムでは決して動きません。小林の精神に居座り続けられていた私は、自分の文章を書くことができませんでした。そしてそのことにずっと苦しめられていたのです、
そんな時でした。雑誌「文体』第4号(文体社、1949年7月10日発行)で、大岡昇平の「鶏と塩と」(『野火』の2)を目にしたのは。当時私は大学の一年生でした。太平洋戦争の末期、敗兵田村一等兵は、フィリピン、ミンドロ島の叢林を、アメリカ兵に追われ、島民ゲリラの目を恐れながら、ただ一人さまよっていました。突然川辺に出ます。
「或る時川は岸からさし出した大木の蔭に蹲った巨大な転石の間を早瀬となって越し、下で渦を巻いていた。私は靴を脱して足を水に浸した。(省略)
「死は既に観念ではなく、映像となって近づいて来た。私はこの流れの岸で、手榴弾により四肢を四散させて死んだ自分の姿を想像した。(省略)「私は改めて目の前に流れる水に眺め入った。それは私が少年の時から幾年も聞き慣れた囁く音を立てて流れていた。(省略)」
田村の視線はまず対象(川の流れ)に向かい、ついで自ら想像したものを対象化し、川の流れとその中で分解して流れる死んだ自分の四肢とが、視野に現れてきます。
戦傑とともに私は、自らの精神が大岡の視線の動きに揺さぶられて、働き始めていることを自覚しました。ああ、と私は再び戦懐しました。今やっと私は、自分から書くことができるだろう、と。
2012年度
『カラマーゾフの兄弟』
(1、2、3、4、5)
ドストエフスキー 著 亀山郁夫 訳
光文社古典新訳文庫
与えられた僅かな紙面で、この19世紀のロシァ小説をどのように紹介すればよいだろうか。まず一箇所を抜き出してみよう。それは、18世紀フランスの文筆家、哲学者、しかも確信的な無神論者であったディドロに.ついて、登場人物の一人が相手に向かって、こう語っている場面である(米川正夫訳〈岩波文庫〉の扉ページに、いつのことか、「p.98.ディドロ」と、私は書き入れている)。「神聖な長老さま、あなたはご存知でしょうか。哲学者のディドロがエカテリーナ女帝の時代にプラトン主教のところに参った話というのを。ディドロは入るなり、いきなり「神はいない』って申したそうですよ。それに対して、主教さまは指を立てて、こう答えたそうで寅『狂った者の心のうちには神はないという』とね。するとディドロは、そのまま相手の足元にひれ伏してこう叫んだそうで魂『信じます。洗礼も受けます』。こうしてディドロはその場でただちに洗礼を受けたって話しです。ダーシコワ公爵夫人が教母に、ポチョムキンが教父になって……』」これを聞いた男は、このでたらめに、かっと怒り出す。と、こちらは態度を急変させて、すぐこう答える。「偉大な長老さま、どうぞお赦しを」「ディドロの洗礼のことは、わたしがさっきお話しをしているときにとっさにこしらえた作り話でして」、「話を面白くするために」勝手にしたことですと。そしてこのくだくだしい泣き言とも弁解ともつかないものは、このあとなおもえんえんと続いていく(亀山郁夫・新訳による)。
――なお、この新訳者は、別の著書(『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』)の中で、私に対して初めてコーリャ・クラソートキンが作中でもつ意味に光を当ててくれたのだった。――
この引用は、ドストエフスキーの多面的な語り口から、ほんの一場面を取り出したものに過ぎないが、読者はここですでに、混沌と惑乱のドストエフスキー的世界の秩序の中に引き込まれてしまっている。ドストエフスキーを知ることによって、青年期の入口にあった私は、それまで知っていた小説世界とはまったく異なる場所へと連れてこられた気がしたのであった。登場人物たちの間の愛憎の振幅は、普通の人間的尺度をはるかに越えてしまっており、彼らの言葉と行動とは、神から悪魔までの間を、考えられないほどの広い幅で上下に震動しているのである。
中学3年の秋、初めて『カラマーゾフの兄弟』の米川訳を読み、この作品に心を奪われた私は、大学の文学部に入ってロシア文学を専攻しようと思い始めていた。しかし、私が行くつもりだった大学にはロシア文学の講座が存在していない。結局、フランス文学科の学生になった私が、文学科の図書室で探し当てたのが、ドストエフスキーの『白痴』の仏訳であった。残念なことに『カラマーゾフの兄弟』のフランス語版は存在していなかった。こうして、私が、フランス語の本の一冊全体を初めて読み切ったのは、ヴォギュエによる『白痴』のこの翻訳であった。あの頃の私は、フランス語をとおして、ドストエフスキーへの飢渇を、いやさざるをえなかったのである。
――亀山訳と米川訳とでは、表現の水準が異なる。「プレイヤッド版」(4人の共訳)は、米川訳に近い。
2013年度
『コーラン』を読む
井筒俊彦 著
岩波現代文庫
日本学士院会員に選定されて、私が毎月の例会に出席し始めたのは、1996年に入ってからであったから、1993年1月に永眠されていた井筒俊彦先生と、学士院の例会で面識をえる機会をついに逸してしまった。
先生をここで紹介するとすれば、古風な表現に頼って、「八宗兼学」の大学匠と呼ぶほかないように思う。先生は、世界中の文化、宗教、哲学に通暁されていたが、それを可能にしたのは、その驚くべき外国語力であった。
先生に朝日賞が贈られた際、ある人が、先生は30か国語を使いこなされるそうですが、と言うと、先生はすかさず、いや、ほとんど忘れましたよ、と答え、すぐにこう続けられていた。「いま使えるのは、英、仏、伊、西(スペイン)、露、ギリシャ、ラテン、サンスクリット、パーリ、中国、アラビア、ペルシャ、トルコ、シリア、ヘブライ語ぐらいのものです」と(独も、もちろん)。
先生がお亡くなりになって程なくして、豊子夫人から先生の最後の著作『意識の形而上学『大乗起信論』の哲学』が私に送られてきた。井筒ご夫妻は、なぜか私の存在をご存知で、どうやら私のことを話題にもされていたらしいのである。この本を読了した私はすぐに先生の著作集(中央公論社刊)11巻と別冊1巻を買い求め、第6巻『コーラン』を含む数冊は一気に読了した。
岩波書店から毎月、私に文庫、新書、現代新書が送られてくるのであるが、先月(2013年2月)に受け取った包みの中に、『『コーラン』を読む』が含まれていたので、改めて読み直したのであった。その際私は、この本を、いやおうなく、同時に3つの層において、読まされていることに気づかされた。
第1は、唯一無二の神「アッラー」を前にした預言者ムハンマドが、自分の心に聞こえてくるコトバに受動的に聞き入る。同時に彼の舌はひとりでに動き出して、耳にしたそのコトバを発しながらなぞっていく。止めようとしても、自分のこの舌の動きを止めることができない。そういう形で神アッラーは、天上のいわば「根源語」をアラビァ語に翻訳しながら預言者に語りかけている。『コーラン』はだから、そういう意味では神のコトバなのであり、したがって神が『コーラン』の著者と言うほかはない。ここに現れているのは、神対ムハンマドの層である。
第2の層では、井筒先生が、『コーラン』のアラビア語テクスト(神とムハンマドの層)を、意味論的解釈学の立場(先生の立場)から読み解いていく(井筒対ムハンマドの層である)。
そして第3の層において、読者である私は、いまや、お目にかかることがかなわなくなっていた先生に、初めて直面する。例えば、―「とうとうこれでおしまいです。」「なんとなくお名残り惜しいような気もしますが、」「皆さんにお話することで私自身は大変勉強しました。」「それではお別れします。」井筒対読者[中川]の層である。
こうして私は初めて、井筒先生の謦咳に接するのである。ある懐かしさの感覚を伴って。この小文の読者もまた、この不思議な、3層の感覚による読書を、自ら体験されんことを。
2014年度
『哲学の三つの伝統』他十二篇
野田又夫 著
岩波文庫
京都大学の学生であった頃、私は文学科の学生であったから、哲学科教授の野田又夫先生から教室で教えを受けたことは一度もなかった。しかし、私が58歳の時(1989年6月)、西田幾多郎・田辺元両先生の記念講演会における先生のお話「西田哲学と田辺哲学―ひとつの回想」(本文庫版には収められているが、同じ題名の筑摩書房版(1974年2月刊)には含まれていない)を聞くという幸運に恵まれた。この本が筑摩から出版されたあと、私は先生からこの本を頂戴したが、その表紙を開くと、すぐ左ぺージに縦書きで一行に「中川久定様 野田又夫」とペンで書かれていた。
上記の講演会については、忘れ難い思い出がある。先生は壇の前に立って話し始められる時、聴衆の最後列に視線を向け、自分の声(高さ、音量)が、そこにまで充分に届いているかどうかを確認され、そのあとは、眼を原稿の上に落として、最後までこの同じ音調を保ったまま講演を続けられたのであった。
もちろん、この論文の題にもある、日本の哲学を代表する西田幾多郎、田辺元両先生の哲学が、その当時の私の理解を超えていたことは、いうまでもない。
この文庫版の総題は、「哲学の三つの伝統、他十二篇」となっている。まず、表題中にある<三つの伝統>について触れておけば、これは、前6世紀頃にギリシア・インド・中国でほぼ同時に哲学が誕生したことを指している。ただし、野田先生ご自身は、次のように指摘されている。「私は西洋東洋の区別を哲学の原理そのものの区別などとは思わない。哲学の原理に東西はないはずだからである。」ただし、東西の伝統をまとめて省みることによって現在の哲学が多くの新たな洞察にいたりうることは期待できる。そして、自分はその哲学的可能性の枠を広げる方向で考えを進めていこうと考えている、と先生は主張されているのである。
この文庫版は、第一部と第二部に分かれているが、第一部は広い意味で、哲学史に分類できる諸章、例えば「西洋哲学と東洋哲学」、「日本思想史の一般的特徴」など。第二部は、哲学者個々人に即した考察、例えば「西田哲学とホワイトヘッド哲学」、「九鬼先生の哲学」のような諸章から成り立っている。京大哲学科の現教授である伊藤邦武氏は、見事な「解説」の中で、この点を次の3項にわたって紹介している。
すなわち、「1.日本思想の特徴とは」、「2.いわゆる東洋思想と西洋思想の対比について」、「3.近代日本の哲学者たちの背景で動いている問題意識とは」という3つの項目である。この3項の説明は、それぞれ注目すべきものである。
だが、それにも増して、私の注意を引くのは、この「解説」の最後において伊藤氏が、野田先生の人となりについて言及しているところであり、それは私自身の印象と、すべてそのままに重なっている。すなわち、「清廉潔白にして、しかも気魄ある志士、穏健ながら譲るところなき自由主義者」という性格にほかならない。
平成26(2014)年の春が巡ってきて、暖かくなれば、学問的に野田先生の直系の後継者というべき小林道夫氏(京大名誉教授、日本学士院会員)とともに、京都市左京区の圓通寺にある野田先生の墓地に詣でようと、昨年から約束してある。私にとって、教えを受けた先生(maitre technique)は少なくないが、最も深い意味で「わが師」(maitre spirituel)と呼びうる唯一の人物は、野田又夫先生しかないのである。
2015年度
『ドゥイノの悲歌』
リルケ 著 手塚富雄 訳
岩波文庫
この本の「解説」の中で、訳者の手塚氏は次のように書いている。―1912年1月、当時リルケは、彼の愛人であったマリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス=ホーエンローエ侯爵夫人に招かれて、北イタリアのアドリア海に臨む断崖の上にある彼女のドゥイノの館で暮らしていた。ある日彼は、受け取った一通の手紙への返事のことで頭を一杯にしながら、海際の稜壁まで降りていった。岩が海中に落ち込んでいる場所にさしかかったその時、嵐のざわめきのなかで、ひとつの声が自分に呼びかけているように思った。彼は、いつもその身から離さないノートを取り出した。
誰の声なのか。彼は理解する。―神が来たのだ。こうして彼は、その声に促されて、それをノートに書き留め始めた。そして、その夜のうちに第一の悲歌が次のように書き留められていった。
ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使がはるかの高みからそれを聞こうぞ?
よし天使の列序(Ordnungen)につらなるひとりが不意にわたしをだきしめることがあろうとも、わたしはそのより烈しい存在に焼かれてほろびるであろう。なぜなら美は怖るべきものの始めにほかならぬのだから。 [以下省略]
筆者中川が今手にしているのは、手塚氏の日本語訳のほか、ドイツ語序文とフランス語訳とである。
RILKE DUINESERE LEGIEN, Aubier Collection Bilangue, Aubier (Collection Bilangue)。
訳者手塚氏は、巻末の注解において次のように指摘している。―第一の悲歌の冒頭にある、自己と天使との隔絶を歎く一句のうちに、ドゥイノの悲歌のすべて、すなわち第一の悲歌から第十の悲歌にいたるまでの、全悲歌の核心がある。悲歌の全体を読み終えた読者の全てもまた、そのように感じるに違いない。なぜなら「美」(詩人リルケにとっての絶対的な存在)は、どのようにしても詩人を超えていて、近づくことを許さないからである。もしそのことが理解しがたければ、この「美」を、絶対的な理想と置き換えてみても良い。誰がいったい、理想的存在そのものにまで、近づくことができるであろうか。
このようにして、「悲歌」のすべての行は、読者誰しもが感ずる歎きを歌っているのである。「おお、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使がはるかの高みからそれを聞こうぞ?」と。
読者の誰しもが、「悲歌」の冒頭に置かれたこの歎きの声を自らのものとして感じずにはいられないであろう。