18世紀世界の中のヨーロッパ、中国および日本─新しい研究視角の必要性
国際シンポジウム
18世紀世界の中のヨーロッパ、中国および日本─新しい研究視角の必要性
日 時: 1997年11月21日・22日
場 所: 愛知県産業貿易館国際会議場
主催:河合文化教育研究所
後援:駐日フランス大使館文化部 岩波書店 中日新聞社
18世紀におけるヨーロッパ諸国と東アジアの日本・中国とを比較して、まず指摘できる顕著な相違点は、ヨーロッパ諸国間の頻繁な交流と、日本、中国間の相互的閉鎖性である。
この時代のヨーロッパ知識人はいずれも、自分たちが同じ「文芸共和国」に属しているという意識をもち、この共通の意識のもとで互いに文通、交流していた。他方、当時の日本は、儒学、漢詩、南画等、一々列挙するまでもなく中国の強い影響下にあって、知識人の多くは、それぞれが儒者であるという強い自覚を抱いてはいたが、ただそれにもかかわらず、中国との直接交流をもちえない閉塞した状況の中にとどめられたままであった。
東アジアとヨーロッパを、18世紀のより広い国際的連関の中に置いてみよう。少数のイエズス会士が北京に在留してはいたが、中国自体はヨーロッパとの交流に必ずしも積極的ではなかった。他方、日本もまたオランダ以外のヨーロッパ諸国に対しては門戸を閉ざし続けていた。この同じ時期、ヨーロッパ知識人の間では、ヨーロッパとアジアとが分かち難いひとつの共通世界を形成しているという認識がほぼ完全に共有されていた。たとえば、ヴォルテール『習俗試論』に始まり、『百科全書』の諸項目、レナル神父『両インドにおける植民と交易の哲学的・政治的歴史』(改定3版)をへて、カント『自然地理学講義』、『恒久的平和のために』、『人間学』にいたるまで、それらのうちに見いだされるのは、もろもろの国は、商業と貿易によって堅く結び合わされたひとつの人類共同体を形成しているという共通の認識であった。
19世紀に入ると、人文諸科学の発展・特殊専門化とともに、歴史学の領域においてもまた学問的細分化が始まりだす。まとまりをもった大きな歴史の流れは、時代によって、地域によって、国家によって分断され、この細分化された専門知識が、相互に切り離されたまま蓄積されていった。18世紀世界に関する研究の状況に目を注いでみても、まだこの古い固定した枠から完全には抜け切れていない。
本シンポジウムは、ヨーロッパ、中国、日本の研究者が、19世紀来の既成の学問の枠組みを抜け出して、ヨーロッパと東アジアを横断する18世紀世界についての新しい研究の視角を模索し、追求するための対話の試みである。
参加者:
中川久定( 京都国立博物館館長)
朝尾直弘( 京都橘女子大学教授)
井田進也( 東京都立大学教授)
井田清子( 玉川大学・駒澤大学講師)
寺田元一( 名古屋市立大学助教授)
日野龍夫( 京都大学教授)
堀池信夫( 筑波大学助教授)
J・プルースト( モンペリエ大学名誉教授)
J・シュローバッハ( ザール・ブリュッケン大学教授)
張 芝 ( 北京大学教授)
孟 華( 北京大学教授)
高 強( 南京大学教授)