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ご案内 第14回河合臨床哲学シンポジウム「生命――ビオスとゾーエー」

12月14日(日)<11:00~18:00> 、第14回河合臨床哲学シンポジウムが開催されます。
河合臨床哲学シンポパンフ.pdf  河合臨床哲学シンポパンフプログラム.pdf

◇河合臨床哲学シンポジウムは、精神病理学者の木村敏主任研究員の提唱によって、2000年から始まりました。精神医学と哲学の第一線の研究者を招いて存分に議論を尽くすというものです。

○場所:東大鉄門記念講堂 <参加費1000円>
○出席者
・シンポジスト:木村敏(河合文化教育研究所)、米本昌平(東京大学)、内海健(東京藝術大学)、野間俊一(京都大学)、
・コメンテーター:加藤敏(自治医科大学)、川瀬雅也(島根大学)
・総合司会:野家啓一(東北大学)

 趣意書

  多くの人間を含む生物が、日々を生き、誕生し、死んでいく。そのありようを叙述しようとする歴史は古く、生物体としてのメカニズムを解明しようとする歴史は、それよりは浅いが、その両者がともに今後綿々と続くであろう。さらに、今日生体を加工する技術(その一部は明らかに医療に貢献している)、生体のありようを日常的に管理しようとする圧力(いわゆるフーコーの言う「生政治」)が、発展もし、批判もされる。
 ところで、生命体としての人間のありようは、ある視点をとってみたとき、我々が持つ日常的枠組みの、短い間に現れているということはないだろうか。
 可能なものと生命の間隙:たとえば、人間は、そのときに可能なものの中から一つを選んで行為するという枠組みを持つ。この選択は、行為が実際なされるまでの、ある長さを持った時間になされる。しかし、この枠組みが完全に人間の生命活動を決めはしない。この枠組みにはふたつの未知の部分がある。まず、われわれにどこまでのどのような選択肢が現れるのか。さらに、実際の出来事はこの選択の枠組みをどこかで逃れる。つまり、人間の活動は、そのときには既在となっている可能なものを超えてそれが届かぬところにまで至るからこそ、その活動は生命的出来事となる。選択の前後に侵入し、姿を覗かせ、理性的選択の枠組みを必然的に超え出る生命。
 生命の集団性が顔を覗かせる場面について:それは整列行進が続くときではない。指揮者フルトヴェングラーは、テンポ・ルバート(音楽が一定の拍の軛から自由になる間のこと)について、次のように述べている。「リズムの自由が生まれるつかの間の時には、必ずそれが"本物"かどうかが暴かれるものです。―中略―ルバートが作品の意味するところによって行われず"他所"から出てきたものである場合、つまり人工的なものであった場合には、必ず誇張されたものになります。」
 ここには、人間の生の集団性にかかわるいくつかの要素が詰まっている。「つかの間の時」と呼ばれるある短い時間。テンポが自由になり、手綱が放たれるにもかかわらず、大勢の楽員が「一斉に」ルバートにはいっていくという集団性。そしてそれが人工的にならないために必要な真正の場。ここではその場は「作品の意味するところ」と書かれているけれども、それは、作品と楽員と聴衆を一挙に包む場であると考えてよいだろう。
 生が限界を越えて破壊され尽くされもすること:アガンベンの著書によってその姿を戦慄とともに広く知られることになった、アウシュビッツで「回教徒」と呼ばれた人々。彼らは、「あらゆる尊厳を捨て」、「仲間から見捨てられよろよろ歩く死体―身体的機能の最後の痙攣」であったと言う。アウシュビッツが無比の事態であったとしても、現代の延命治療が自然の病苦に手を加えて死にゆく人を「回教徒」化させたことがなかったとはたして言い切れるか。
 木村はケレーニイに依拠し、個体化される前の大文字の〈生〉でもあり〈死〉でもあるものを「ゾーエー」、そこから個体化されそこへ帰るものを「ビオス」と呼んで、「生命論的差異」を構想した。この大きな構想の懐の内で、また傍らで、我々は小さな瞬間、切れ目から、様々な生命と死を論じることができるのではないだろうか。(津田 均)