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研究室から

廣松渉氏の遺稿整理を再開           
               小林昌人 
               『社会理論研究』 第17号 2017.1.25発行

 

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 2016年4月、廣松渉氏の遺稿の整理を再開した。約10年中断していた作業である。この大哲学者の遺稿整理などというだいそれた仕事を私がどうして行うことになったのかを、この機会にしたためておくと同時に、作業の進捗状況を明らかにしておくことにしたい。

 
















 時は1994年5月22日、廣松氏が亡くなった日に遡る。

情況出版の古賀暹編集長からの電話で訃報に接し東京・虎ノ門病院の霊安室に行くと、そこではすでに遺体の傍らで翌々日の通夜と25日の葬儀をどうするかが話し合われていた。岩波書店『思想』編集長の合庭惇氏から祭壇に著書を全部並べようという提案があり、それは良いということになった。だが著書は膨大にあってどこから持って来るかが問題である。幸い――全くの偶然だが――葬儀場となった寺は泉岳寺にあり、私の家から地下鉄で3駅の近場だった。それで私の蔵書を並べることになり、登山のザックと段ボールに詰め、岩波書店辞書部で廣松渉他編『哲学思想辞典』を担当し廣松氏の最晩年まで付き合いのあった押田連氏と2人でタクシーで運んだ。祭壇に並べられた著書は幅1メートルを超えた。

 霊安室では、誰の発案だったか覚えていないが、会葬御礼に著作目録も添えようということも決まった。著書を持ち出す私が一番手っ取り早いということになった。幸い――これまた偶然だが――当時の私は写植会社に勤務していたので、翌日には版下を印刷会社に入れられる状態にあった。通夜・本葬まで時間はない。翌朝早出をして目録(単行本のみ)を作り、昼休みに印刷屋に渡すというギリギリのスケジュールだった。葬儀で配った「著作目録」が、その後の私を規定することになった。

 7月17日、「廣松渉先生を偲ぶ会」がブント(共産主義者同盟)系を中心にもたれた。そこで配布されたパンフレットに年譜と著作目録の掲載を求められ、「略年譜」と「(暫定版)著作年譜」(雑誌論文等を含む)を載せた。1981年前半までの詳しい著作目録は、すでに小林敏明氏編『新左翼運動の射程』(1981年)の付録としてユニテの藤井政典氏によって明らかにされていた。私の仕事はその続編を付け足すことであったので、「(暫定版)著作年譜」と称した。

 情況出版の『廣松渉コレクション』(全6巻(1995-96年)では私も刊行委員会に加わったが、これは、著作目録とは直接の関係はない。ただ、どんなテーマ(巻)の下にどの論文を収録するかという問題では、先の「(暫定版)著作年譜」が使われた。ことの序でに記しておけば、『コレクション』で私は「読み直されるマルクス」と題する第3巻の編集を担当したが、三つの節からなる解説については一つの節を高橋順一氏にお願いして書いていただいた。アルチュセールと廣松氏との異同という論点は、私ごときが書いても説得力を持たないだろうと判断したからである。

 『コレクション』の編集作業は岩波書店の『廣松渉著作集』(全16巻、1996-97年)の編集と併行して進められ、可及的に重複を避けるべく、吉田憲夫氏(廣松氏が主宰した「社会思想史研究会」の実質的座長、前大東文化大学教授)が両方の編集委員会に入った(吉田氏の役割はそれだけではないが)。

 私は『著作集』では編集委員会に加わっていないが、16巻全巻に書誌的事項を中心にした「解題」を書くことと、「年譜」と「著作目録」を作成し第15巻に掲載することが決まっていた。第8巻「マルクス主義の成立過程」では「解説」も書いた。

 葬儀以来の流れで、いつの間にか年譜・著作目録は私の仕事という役割分担ができていた。『廣松渉を読む』(情況出版、1996年)には「年譜――廣松渉の足跡」を作成・掲載した。その凡例には「著作目録は別に『廣松渉著作集』第15巻に集収されるので、併せて参照を願う」と記してある。この時には『廣松渉著作集』の刊行も始まっていた。

 


 年譜・著作目録の作成は、廣松氏宅での蔵書・遺稿整理と結びついている。この作業は廣松氏の没後半年ほどして始まった。メンバーは、直江清隆氏(現在は東北大学教授)、前掲の岩波書店の押田連氏(現在は編集部)、それに私の3人である。直江、押田の両氏は東京大学大学院科学史・科学哲学教室で廣松氏から直接薫陶を受けた人物である。両氏が大学院生の時に廣松氏から紹介され、月に1回、マルクス主義と科学論をテーマに学習会を重ねた旧知の仲でもある。因みに、学習会には勝守真氏(現秋田大学教授)、小松美彦氏(現武蔵野大学教授)、瀬戸一夫氏(現成蹊大学教授)ら科学史・科学哲学教室のメンバーが参加していた。

 3人での作業の前に立ちはだかっていたのは1万数千冊の蔵書の山。あれだけ多岐にわたる仕事をした廣松氏の営為からすれば、少ないともいえるが、夫人によれば、廣松氏は図書館の本を多用していたとのこと。これらの蔵書の奥付をまずは片っ端からコピーすることから作業は始まった。書き込みなどが多数ある場合には「重要」という意味で「大」のハンコを押した。「著者謹呈」のカードが挟まっていれば「寄贈本」と記した。宗教団体などから一方的に送りつけられたと思われるものは蔵書に加えず、夫人とも相談してはじいた。

 "片っ端からコピーする"ことができたのは、河合文化教育研究所(以下「河合文教研」)のおかげである。廣松氏は、94年3月の東京大学定年退官後は河合文教研の主任研究員の一人として着任することが決まっていた。結局1日も"出社"することができなかったが、河合文教研は「廣松渉研究室」を作り、没後も関連事業に援助を続けた。『廣松渉著作集』には出版助成を行い(これがなければ1巻5200円(税込)の定価は2~3000円上がっていたろう、とは合庭惇氏の感想である)、私たちの作業にも『著作集』のための仕事として日当を支払ってくれ、作業に必要ならとコピー機もレンタルで廣松氏宅に入れてくれたのだった。

 蔵書整理で厄介だったのは、本に挟まれた膨大なメモの扱いであった。いずれどこかの図書館に蔵書を引き取ってもらえたとしても、このメモ類が書籍と切り離されてしまうことは必定である。そこで、この段階で書籍と分離した上で、当該のメモが誰のどの本の何頁に挟まれていたかを記して一つずつ封筒に入れることにした。書籍が何年のどの版かということは奥付から分かるので、省略した。

 蔵書整理の過程で、廣松氏が雑誌や新聞等に書いたものが大量に見つかった。大学祭などで講演を行った際はパンフレットが残されていた。これらが年譜・著作目録をより充実したものにさせたことは言うまでもない。96年に岩波同時代ライブラリーから私の編集で出した『廣松渉哲学小品集』は蔵書整理の過程で見つかったエッセイを中心に編んだもので、作業の副産物と言える。

 


 蔵書の整理が一段落して、次は遺稿の整理である。

 遺稿は、封筒やビニール袋にまとめられていたり、紐で括られていたり、紙袋に詰められていたり、菓子箱に入れられていたり、剥き出しであったりと、散在していた。

 袋や紐でまとめられた束には廣松氏の筆跡で「大学時代のノート類」などと分類タイトルが付けられているものもあった。1970年代後半、ガンの疑いで死を予期した廣松氏は、若い頃の原稿、ノート、メモ類を整理してまとめたという。その際の整理は崩さず一括したままで、散在している遺稿を段ボール箱に詰めていくことにした。段ボールには箱ナンバーをつけたが、これは便宜的なもので、執筆時期や分類とは関係ない。直江氏の発案で、重要な遺稿は元来の場所から移して「別置」としてまとめることにした。箱ナンバーは「別置」にあてる1~10をブランクにして11から始めた。

 遺稿整理の初期に、直江氏は熊本に就職が決まり、押田氏も仕事が忙しくなって、あとはほとんど私一人で行うことになった。

 遺稿整理が蔵書整理と決定的に異なるのは、それぞれの遺稿について細かな情報を記しておく必要があることである。例えばそれが何に書かれているか。原稿用紙か、レポート用紙か、大学ノートか。原稿用紙の場合はどのメーカーないし出版社のものか、等々。用紙種類は執筆時期推定の手掛かりとなる。

 内容についても多少は読まなくてはならない。執筆した著書や論文の参照が求められていてそれが「昨年」と記されていれば、問題の遺稿の執筆時期も自ずと判明する。整理した遺稿はリスト化しているが、何に関する論文、メモなのかは読まなければ分からないし、多岐にわたる理論的営為は私ごときの知識量をはるかに超えているので、読んでも何に関することものなのか分からない場合も少なくない。そんな時はどうするか。――途方に暮れるのである。

 そうはいっても。作業は進めなければならない。遺稿・メモにタイトルが付いていればそれをリスト項目とし、タイトルがなければ「云々で始まるメモ」として逃げる手もある。ところが廣松氏の文字はひどく崩れていて、独特の略字を使っている場合も多く、判読に窮する場合が多々ある。そういう時は"根性で読む"ことになる。当のメモなり覚書なりの中で同じ形をした略字を探して(時には部首だけでも)、文脈から推測するのである。

 廣松氏の名誉のために言い添えておけば、氏は決して悪筆ではない。学生時代のレポート、卒論、修論や、文筆界にデビューしてからの出版社に入稿した原稿など、読んでもらうためのものは丁寧に書かれている。判読に困ることはほとんどない。厄介なのはあくまでも自家用のメモや下書き、本の書き込みなどである。

 初期の遺稿整理の成果としては、私の編集した『廣松渉 マルクスと哲学を語る-単行本未収録講演集』(2010年、河合文教研)を挙げることができるだろう。

 

 


 2005年、蔵書が東大の本郷と柏の図書館に収蔵された。熊野純彦氏(現在は東京大学文学部長)の尽力のおかげである。同年9月に『廣松渉教授寄贈図書リスト(東京大学総合図書館・東京大学柏図書館)』が非売品だが作成されている。

 蔵書の移転に伴い、遺稿も河合文教研に移された。文教研は当初千駄ヶ谷にあったが、当時は池袋に移転していて、「廣松渉研究室」も池袋に移されていた。ここに、遺稿を詰め込んだ段ボール箱と、廣松さんが書いた(共著を含む)単行本、雑誌、新聞などが引っ越した。

 この時点で、遺稿整理の作業は中断した。

 これまでは月に1、2回、土曜か日曜にご自宅へ伺っての作業だったが、土日は河合文教研は休みである。当時の私はDTP(組版)の仕事をしていて時間的には融通がきいたが、平日に1日休むのは難しかった。それで作業が途絶えてしまった。1回途絶えると再開のタイミングはなかなか見つからないものである。DTPの仕事が減って平日にも空きがでるようになり、DTPを廃業して放置自転車を撤去する行政の下請け仕事を1年弱やり、この間にも平日が休みになるケースが月に1回ほどあった。DTP時代にも時折やっていた校正の仕事に純化してからは、仕事にあぶれる日が結構発生するようになった。それでも遺稿整理の再開には至らなかった。

 この間の2015年、南京からの留学生が河合文教研にスキャナを持ち込んで、廣松氏の学生時代の膨大なノート「論理学ノート」をスキャンしてPDFファイルにする仕事を開始していた。南京大学副学長・張一兵氏の指示である。

 ここで南京大学と廣松氏との関係について説明を挿んでおいたほうがいいかもしれない。

 同大学の張一兵氏を中心とするグループは2005年に廣松渉版(河出版)『ドイツ・イデオロギー』の中国語訳(中国語版とドイツ語版の合本)を出版した。マルクス・エンゲルス・レーニンの翻訳は中央編訳局にしか認められていないのだが、「日本の廣松渉の業績の翻訳だ」と中央編訳局を説得し、南京大学出版から刊行したものである。その後も廣松氏の著作『事的世界観への前哨』(2002年)、『唯物史観の原像』(2009年)、『物象化論の構図』(2009年)、『存在と意味(第1巻、第2巻)』(2009年)、そして小林敏明氏の編集になる『哲学者廣松渉の告白的回想録』(2009年)の翻訳を相次いで刊行している。併行して「廣松渉とマルクス主義哲学国際シンポジウム」も開催し(1回は東京にて)、2015年で第5回を数えるに至っている。『ドイツ・イデオロギー』をテーマにした第2回シンポジウム(2005年)では私が基調報告を行った。

 2015年秋のシンポジウムの後、南京大学から遺稿をまるごと引き取りたいという打診があった。南京大学には張一兵氏の指導の下に「マルクス主義社会理論研究センター」や「中日文化研究センター」があり、広いスペースを確保している。廣松氏の著書(単行本)も廣松夫人から寄贈されて一通り揃っている。そこに遺稿を移すというのは悪い話ではない。ただ、日本人研究者にとって利用しづらくなることは間違いない。

 年末に、廣松夫人とシンポジウムに参加した社会思想史研究会メンバーの一部、それに熊野氏と私が加わって河合文教研に集まり、遺稿の現物を見た、社史研メンバーは、「まとめて(つまり散佚させないで)引き取ってくれるのであれば、南京大学でもいいのではないか」、「PDF化されたデータをわれわれが利用できるようにしてくれればよいのではないか」といった意見に傾いていた。

 そこで奮起したのが熊野氏である。"海外流出は避けたい"との思いで尽力し、東大柏図書館で遺稿の受け入れが決まった。2016年3月31日、年度末最終日のことである。私にとっては、中断していた作業を再開するきっかけが与えられたことになる。河合文教研にあるうちに遺稿整理を終えたい。幸か不幸か、仕事は不安定で、ひどい時は月に10日しか仕事がない。そんなわけで4月から作業を再開した。

 

 

 


 ナンバリングされた箱は整理が終わった。箱ナンバーがない「卒論の箱①②」にてこずっている。剥き出しの原稿やメモが膨大にあり、リスト化が難儀だからだ。だが、これは時間が解決してくれるだろう。

 主要な遺稿の整理の再開と同時に、河合文教研でPDF化も開始した。これは私の担当ではなく、河合文教研東京室長の相京範昭氏の知人、中島雅一氏(本業は私と同じ校正業)の作業。どれをPDF化するかは私が選んでいるが、かなり膨大になっている。いずれ文教研のホームページで公開される予定である。これらの遺稿が明らかになれば、廣松思想の形成過程についての研究に大きく貢献することになるであろう。 (マルクス研究家・校正業)