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私の受験時代

河合文化教育研究所には5名の主任研究員の先生方がいらっしゃいます。
その先生方にも受験時代がありました。その思い出を3名の先生方に語っていただきました。



私の受験時代
     河合文化教育研究所主任研究員  木村  敏

わたしは幼年時代を、医者だった父の任地である岐阜県の高山市で過ごした。小学校(戦時中は「国民学校」だった)を卒業して、1943年に県立の斐太(ひだ)中学校へ進学した。当時の高山は、鉄道が開通したばかりという山奥の田舎町だったから、中学へはいるのはまさに「進学」だった。しかしそこで「学べた」のは1年ぐらいで、2年生になった頃には戦局が悪化して学校ぐるみ機関銃の銃弾を作る工場に変わってしまい、登校するとすぐ旋盤を相手にする学校生活になっていた。敗戦でそんな毎日から解放されたのが3年生の8月15日。翌年から旧制中学の4年生は新制斐太高校の1年生に読み替えとなった。戦争が終わると同時に授業は再開されたのだが、大都市の受験戦争などどこ吹く風の、のどかな学園生活だった。

わたしの父の生家は高野山の麓で代々医業を営んでいて、父はその35代目にあたるらしい。だからわたしも医者以外の職業を考えたことがなかったし、父と同じ京大医学部に進みたかった。そのためには京大の弟分のような三高(旧制第三高等学校)に入学するのが一番の早道だった。戦後もしばらくのあいだ、旧制中学の4年、つまり新制高校の1年を終了すれば、1年繰り上げて旧制高校を受験できる制度がまだ残っていた。 しかし受験情報のほとんど届かない高山に住んでいて、そのことに気づいたのは願書の締め切り直前だった。ほとんど勉強もしないまま受験した三高は、もちろん見事に失敗した。わたしの生涯で唯一の落第である。

翌年、高2(旧制中学5年)で再度三高に挑戦し、今度はうまく合格したが、それからがたいへんだった。三高はわたしたちが1年生をすませると同時に消滅して、京大の教養部に移行することが決まり、またしてもなんの準備もなく京大を受験するはめになってしまった。ところが医学部はまだ新入生を取らないので、理科系のどこかの学部で2年間の教養課程を終えてから再受験しなければならなかった。わたしは とりあえず理学部に籍を置いて、2年後にもう一度入試を受け、ようやく医学部で学ぶことができた。

というわけで、高1からスキップで三高を受験したときの失敗を除けば、小学校から大学までずっとストレートに通したことになるのに、その間に受けた入学試験は、中学、三高を2回、京大理学部、京大医学部と計5回、それなのに卒業式で卒業証書をもらえたのは小学校と医学部の2回だけで、その途中はすべて制度変更の学年読み替えで通過したことになる。

戦後すぐの山奥の中学では、受験勉強といえるものはまず皆無に近かった。三高に入学して痛感したのは、都会の中学からきた連中の英語力の強さである。しゃくにさわったから、同時スタートのドイツ語で頑張ることにした。その結果、医者になってからドイツへ留学し、英語圏の自然科学的な精神医学とは一風違った、哲学的色彩の濃厚な精神病理学を専攻することになった。それでまがりなりにも国際的な仕事ができたのだから、何ごともものは考えようである。もしわたしがどこかの都会で中学高校を出ていたら、現在のわたしはなかっただろう。  
       (  文教研れぽ~と2004年 夏号 )
 
   
 



私の受験時代  
   河合文化教育研究所主任研究員 長野 敬

日本の敗戦が、天皇のラジオ放送で確認された昭和20(1945)年8月の暑い日の正午、中学4年生の私は自宅にいた。送電のネットワークはすでにガタガタで、工場に電気が来ない「休電日」というのがあり、そのせいだったかもしれない。記憶はすでに不確かになっている。
中学生で工場? 中学「4年生」? これを読む諸君が「それ、知ってるよ」というのであれば、直接教えてくれたのはご両親でなく、おじいさん・おばあさんの世代の筈だ。

当時の一般教育制度は6・5・3・3(4)を骨格にしていた。2番目の「5」が中学で、その上に旧制高等学校の3、そしてその先に大学があった。ただし、もはや教育などに手間は掛けていられない。中学は4年に切り詰められた。大学も2年とか2年半にはしょって、学徒出陣という言い方で戦場へ駆り出された。

中学生だった私も2年間ちかく、授業というものは受けなかった。「銃後」の国土でも工場への勤労動員という狩り出しは進み、東京西郊の東京府立十中(いまの都立西高校)の生徒は、さらに西の立川市郊外の飛行機工場に動員された。ジュラルミン板を鋏で切り、ドリルで孔を開けて機体に張りつけるのが毎日の仕事だ。しろうとの少年が寄ってたかって工作のように組み立てた輸送機が、どれだけ事故を起こしただろうか。データは目にしたことがない。いずれにせよもはや、そういうことが問題になる段階ではなかった。

ここは、昭和初期にアメリカの技術導入で始まった企業なので、工場も飛行場も占領後に自分たちで利用するから、爆撃で壊さないだろうとは囁かれていたが、対空砲火が何もない中を戦闘機が超低空でやってきて、面白半分のように銃撃を加えた。不幸にも女学生が一人死んだということもあって、工場はさらに西、東青梅に急ごしらえの小屋を建てて移転した。多摩川の中流、景色のよい丘陵地帯を吊り橋を渡って通うのだ。せっぱ詰まった戦争末期という背景がなければ、毎日ハイキングをしているようなものだ。

それでも空襲警報のサイレンは響き、するとバラック小屋の工場から出て、思い思いに隣の山林に退避する。丘の斜面のせせらぎで沢蟹が遊んでいる。警戒警報へと解除になるまで、この自然の図書室で本が読めるので、空襲警報が楽しみだった。佐藤春夫の『田園の憂鬱』とか、ドス・パソスの斬新な手法の『U・S・A』などの印象は、いまでもよく記憶に残っている。戦争にまつわるような書物は興味もないし、全然読まなかった。

食料事情は日増しにきびしく、腹はいつも減っていたが、自由気ままでもあった毎日は8月に終わった。まだ4年制のままの中学だから、半年後には高校(旧制)の受験がある。しかしそんなことに頭が回るような者は、誰もいなかっただろう。中学は再び5年制に戻る。もし不合格なら、この年に限っては澄ました顔でもとの中学(予備校でなく)に戻って、中学5年生になればいいのだ。私は次の春に一高(いまの東大駒場)に入り、中学5年生にはならなかった。

受験時代とはとても言えなかった一つの無受験時代は、いまも懐かしく回想される。 

          (文教研れぽ~と2004年 春号)
 

 

 


 
私の受験時代
    河合文化教育研究所所長 丹羽健夫

私が高校を卒業したのは昭和29年(1954年)であった。その年私は名古屋大学法学部を受験した。そして落ちた。

なぜ名古屋大学法学部かというと、それにはさしたる理由はない。ただ私が毎日のように入り浸っていた学校の図書室にTさんという学生アルバイトの司書がいて、彼がひどく知的に優美に見え彼の大学に入ろうと決めたにすぎない。彼はいつも司書の机に座って難しそうな本を読んでいた。冬など暖房などない当時のことゆえ、図書室は氷のように冷えた。そんな時Tさんは頭からすっぽり外套を被って彫像のように本を読みつづけた。私はTさんの読書を妨げまいと司書代行を務めた。

ともあれ私は第一回目の受験に落ちた。受験校は一校であった。それなりの自信もあったし、試験本番にも手ごたえを感じていた。当時は模試などほとんど無かった時代で、合格可能性などすべて自分で憶測するしかなかった。このとき私は自分の楽天性や状況分析の甘さに鉄槌を打たれた感じがした。

落ちたことを告げると、母はひどく怒った。私に対して怒ったのではない。山本桜雲にたいしてだ。山本桜雲というのは近所の占い師で、なにごとによらず母はそこで観てもらっていたのだ。その桜雲が「息子さんは合格です」と託宣したというのだ。

再挙を期して私は名古屋の河合塾に入った。当時の河合塾は校舎は桜山校のみで塾生は多分500名ほどで、200人教室がふたつだけであった。授業は高校のそれとはまったく違っていた。英文読解は創始者の河合逸治先生であった。英国の詩人バイロンの「チャイルドハロルドの冒険」を一学期を通して解説された。テキストはガリ版刷りであった。私は物語の面白さ、英語の持つ表現の豊かさや技巧にはまりこんだ。現代文は愛知学芸大の先生で、やはり一学期間を通じて与謝蕪村を読んだ。「春風馬蹄の曲」を中心に蕪村漬けであった。私は日本語、日本語の持つ「気配」、それらを作り出した風土の中に耽溺した。他の教科も同様であった。どの教科でもその教科の持つ真髄、本質が語られた。

夏休みがきた。東京のS予備校へ行っていた親友の I が戻ってきておたがいの予備校について語り合った。I は河合塾のガリ版刷りのテキストを見てこう言った「安っぽいテキストだな。それに道楽じゃないんだから一人の作家を一学期間もやっていて入学試験の役に立つのかな。うちなんかこれだ」と言って I はS予備校の英語のテキストを見せた。それは印刷された冊子であった。それよりも私が目を奪われたのは、内容がすべて「・・年・・大学」と注の入った入試の過去問題であったことだ。I は追い討ちをかけるように言った。「S予備校では毎日が入試問題との格闘だ」二学期、私は上京してS予備校にはいった。

翌春、名古屋大学の経済学部に合格した。どちらの予備校が私により多くの学力を付けてくれたかは分からない。だが言えることは、バイロンや蕪村たちはいまも私の身体のなかに生きている。ときに応じて彼らの言葉や唄を口ずさんでみたりもする。

合格を報せると母はまた怒った。あの桜雲がまたうそを言ったというのだ。 

           (文教研れぽ~と2004年 秋号)