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ドストエフスキイの肖像画・肖像写真について

        
ドストエフスキイの肖像画・肖像写真・1
   肖像画 в.г.ペローフ 画  1872年

 ドストエフスキイの肖像画として、これが恐らく最も有名なものでしょう。
私も若い頃、ペローフの肖像画が表わすドストエフスキイの精神性の深さに
驚かされ、心から感動させられました。しかし決定的だったのは哲学・宗教
思想の師小出次雄先生から「ペローフの肖像画が果たしてドストエフスキイ
の精神世界を描き切っているかどうか、考える余地がある」と言われたこと
でした。この絵の更に奥にドストエフスキイ世界の奥深さを一体どう求めて
ゆけばよいのか、私は………………(つづく) → 肖像画в.г.ペローフ画 解説.pdf

 

 

ドストエフスキイの肖像画・肖像写真・2
   青春の肖像画 K
..トルトーフスキイ 画、1847年

今回紹介するのは、ドストエフスキイ26歳の頃の鉛筆で描かれた肖像画です
(K.A.トルトーフスキイ画、1847年)。今まで紹介したものは、ドストエフスキ
イが59歳の時に撮影された最後の肖像写真(パノーフ撮影、1880)、そして
51歳の時に描かれた肖像画(ペローフ画、1872年)二つですが、これらが共
に表現する重厚で深遠な思索家ドストエフスキイ像とは異なり、この肖像画が
表わすのは何よりもまず青春の真只中にある瑞々しい、そして繊細この上ない
ドストエフスキイと言ってよいでしょう。この肖像画を描いたK.A.トルトーフス
キイ自身が美術専門学校の生徒であるということも、この肖像画に青春の輝き
を一層加えているのかも知れません………………(つづく) → 青春の肖像画 K.A.トルトーフスキイ画 解説.pdf

 

 

ドストエフスキイの肖像画・肖像写真・3
   死の家から出てきた男              小出次雄 画

 今回紹介するのは、私の恩師小出次雄先生(1901-1989)が描かれたドストエ
フスキイの肖像画(1983)で、「死の家から出てきた男」というタイトルが付さ
れたものです。同時に付したのはこの肖像画の基となった写真で、1861年
にペテルスブルクでМ.В.トゥリーノフによって撮影されました。珍しい立ち姿
のドストエフスキイです。
 前回記したように、ドストエフスキイは政府転覆を計る革命結社に加わった
かどで逮捕され(1849年、ペトラシェフスキイ事件)、死刑を宣告されたもの
の、銃殺の直前に執行を免除されてシベリア流刑となります。これは皇帝ニコ
ライ一世が仕組んだいわば「懲罰劇」でした。1850年から1854年まで
トボリスクで四年間の懲役生活を送った彼は、その後更に1859年までの5
年間セミパラチンスクで兵役生活を送り、1859年に漸くペテルブルクに帰
還します。逮捕から始まってほぼ10年間のシベリア生活。この10年の過酷
な体験がドストエフスキイをドストエフスキイにしたと言えるでしょう。
 この肖像画を前にした時、私はドストエフスキイの立ち姿に不思議な感銘を
覚えました。………………(つづく) → 死の家から出てきた男 解説.pdf

 

 

 ◎ドストエフスキイの肖像画・肖像写真・4
「混沌(カオス)に向かって」  [A.O.バウマン撮影、1862-63]


今回紹介する肖像写真はA.O.バウマンにより、1862年の秋から翌年の
秋頃までにペテルスブルクで撮影されたとされています。前回のM.B.トゥ
リーノフによる1861年の肖像写真、更にはこれを基にした小出次雄先生
の肖像画と較べると、今回は彼の視線も姿勢も随分と前向きなものが感じら
れます。但し「前向き」という言葉を用いたのは、やや複雑な意味を込めて
のことです。………………(つづく)
  → 「混沌(カオス)に向かって」[A.O.バウマン撮影、1862-63] 解説.pdf

 

 

 

 ◎ドストエフスキイの肖像画・肖像写真・5
「1872年、二つのドストエフスキイ像
   ― ラウフェールトの肖像写真とペローフの肖像画 ―」  [В. Я.ラウフェールト 撮影、1872]

今回の写真は1872年、ペテルスブルクでВ. Я.ラウフェールトにより撮影
されたものです。1867年ドストエフスキイは、債権者たちから逃れるた
め、若い妻ソフィアと共にロシアを離れ、1871年に帰国するまでの四年
間ヨーロッパ各地を転々とします。この間の写真は残されていません。
前回我々が見た1863年の写真から九年が経ちます。
………………(つづく)
「1872年、二つのドストエフスキイ像
― ラウフェールトの肖像写真とペローフの肖像画 ―」  [В. Я.ラウフェールト撮影、1872]解説.pdf

 

 

 

◎ドストエフスキイの肖像画・肖像写真・6
ドストエフスキイの「微笑」  [Н.ドース 撮影、1876年]

今回紹介する写真は、ドストエフスキイが55歳の時、ペテルスブルクの
写真家ニコライ・ドースによって撮影されたものです。
この時二枚の写真が撮影されたので、それらを並べて掲載しておきます。
これら二つを比較するのも興味深いのですが、今回は胸部から上の肖像写真
に焦点を当てたいと思います。
と言うのもここには、彼の微かな「微笑(ほほえみ)」が映し出されている
からです。ドストエフスキイの肖像画や写真の中でも、殆んど唯一と言って
もよいでしょう。………………(つづく)

ドストエフスキイの「微笑」  [Н.ドース撮影、1876年].pdf

 

 

 

◎ドストエフスキイの肖像画・肖像写真・7
 死を超えた「永遠の生命」 [H・ロレンコ―ヴィチ 撮影 1878年]

★今回取り上げる肖像写真は、1878年、スターラヤ・ルッサの写真家
H・A・ロレンコ―ヴィチによって撮影されたものです。スターラヤ・ル
ッサとは、ドストエフスキイがヨーロッパより帰国してから死に至るまで
の約十年間、家族と共に主に夏を過ごした別荘のある町ですが、『カラマ
ーゾフの兄弟』の舞台である「家畜追込町(かちくおいこみちょう)」のモ
デルとなったことでも知られています。………………(つづく)
死を超えた「永遠の生命」 [H・ロレンコ―ヴィチ撮影 1878年].pdf

 

 

 

◎ドストエフスキイの肖像画・肖像写真・8
 『カラマーゾフの兄弟』執筆中のドストエフスキイ(1) [K・A・シャピロ 撮影 1879年]

★今回紹介する写真は、前ページに掲載したメインのものを入れて全部で
4枚、1879年3月29日、ペテルブルクの写真家K・A・シャピロが
撮影したものと判明しています。
それゆえ、我々はドストエフスキイ自身の生活史の中に正確に位置づけて
見ることが可能となるでしょう[後の2のテーマです]。
また1879年の3月とは、『カラマーゾフの兄弟』執筆さ中のことであ
り、我々はこれらの写真を、作品の具体的な内容展開との関連で、様々に
思いを巡らせて見ることも可能となるでしょう[後の3のテーマです]。………………(つづく)

『カラマーゾフの兄弟』執筆中のドストエフスキイ(1)

 [K・A・シャピロ 撮影 1879年].pdf

 

 

 

◎ドストエフスキイの肖像画・肖像写真・9
 『カラマーゾフの兄弟』執筆中のドストエフスキイ(2)
  [M・M・パノーフ 撮影 1880年6月9日]


★今回扱うドストエフスキイの肖像写真は、1880年6月9日、モス
クワの写真家М ・М ・パノーフによって撮影されたものです。
パノーフによる肖像写真は、次のページに掲載する2枚が残されていて、
ドストエフスキイ生前最後の肖像写真とされています。
今回はそれらの内で左側のもの 、前ページに掲載した胸から上の肖像写
真を取り上げたいと思います。
こちらの方がもう一枚の写真、次ページ 右側の上半身の全体像と較べて、
ドストエフスキイの相貌がより大きく鮮明に写し出されているからです。

「鮮明な相貌」と記しましたが、ここには実に多くのもの複雑なものが
蔵されていて、例によって、この「ドストエフスキイ的混沌」を読み解き、
それを明晰な言葉で表現するということは容易でありません 。
今回はこの写真について妻のアンナの回想が残されているので、これも
大いに参考とさせて貰おうと思いますが、 彼女の解説は実に刺激的で啓
発的である一方 、 我々はここから却って難しい課題も与えられてしまう
でしょう 。
しかし彼の肖像写真に関しては、そもそもこのような読み解き難さこそ、
思わぬ豊饒さが顕われ出る場であると思い定め、今回も「読み外し」を恐
れず、 同じテーマについて「行きつ ・ 戻りつ」を繰り返しながら、
「 ドストエフスキイ的混沌」へのアプローチを計りたいと思います。………………(つづく)


   →『カラマーゾフの兄弟』執筆中のドストエフスキイ(2)
 [M・M・パノーフ 撮影 1880年6月9日].pdf