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野家 啓一『わたしが選んだこの一冊』

 

野家 啓一
『わたしが選んだこの一冊』

・2018年 『思想のドラマトゥルギー』林達夫・久野収 著 平凡社ライブラリー 
・2020年 『安吾のいる風景/敗荷落日』石川淳 著 講談社文芸文庫
・2021年 『学問のすゝめ』福沢諭吉著 岩波文庫
・2022年 『時間と自己』木村敏 中公新書



2018年

『思想のドラマトゥルギー』
林達夫・久野収 著
平凡社ライブラリー 

 私が学生時代を過ごしたのは1967年から1971年までの4年間、いわゆる「大学闘争」の真っ最中である(そのせいか、今でも「大学紛争」と表記することには抵抗を覚える)。現今の静穏な大学からは想像しにくいが、キャンパスには立て看板が乱立し、教室に行けばクラス討論、外に出ればデモ行進といった日常であった。

 そのような騒然とした雰囲気の中で、専門(物理学)の勉強には身が入らなかったものの、乱読の時間だけはたっぷりとあった。そんな折、何かの総合雑誌であったと記憶するが、ある評論家が学生たちの行動に一定の理解を示しながらも、その傍若無人の振舞いをたしなめ、せめて林達夫の「十字路に立つ大学」を読んでほしい、と書いていた。林がこのエッセイを書いたのは1949年、そこには以下のような一節を読むことができる。

 「私はチャールズ・ラムの『エリア随筆』を天下無類の書物(略)として愛誦する一人であるが、あの中の「休暇中のオックスフォード」にはとりわけ心打たれるものがある。あの中には、貧しい家庭に生まれてあこがれの大学についに進み得なかった不仕合せな落伍者の綿々として尽きぬ哀歌がある。(略)オックスフォード大学は彼にその門を閉ざした、卒業名簿に名の載っていないこの失意の潜在的学生をもったことを誇るもよいし、この青年=老人の諦観が歌い上げた大学賛歌の余りの純真さに自らの後ろめたい現実を恥じるもよい。」(『林達夫著作集』第6巻所収、平凡社、1972年)

 当時の大学進学率は、男性20%女性5%程度に留まっており、東北の地では集団就職や出稼ぎが話題となっていた時代である。それゆえ、入手困難であった林のエッセイとラムの『エリア随筆』を読むべく、さっそく図書館に足を運んだことは言うまでもない。それ以来、「林達夫」の名は私の脳裏に深く刻み込まれることとなった。当時は「大学闘争」のあおりで化けの皮が剥がれた「知識人」が多かったけれど、言うまでもなく信頼するに足る文筆家の一人としてである。そんなわけで、大学院を出て大学で教鞭をとるようになり、初めて貰った給料で私が購入したのは、『林達夫著作集』全6巻であった。

 「十字路に立つ大学」を含む林のエッセイは、現在では中川久定(編)『林達夫評論集』(岩波文庫)で読むことができるし、また高橋英夫(編)『林達夫芸術論集』(講談社文芸文庫)も容易に手に入る。もちろん、大学入学を目指している高校生や高卒生の皆さんにはぜひ手に取っていただきたいのだが、これらに収録された文章はほとんどが戦中・戦後に書かれたものであり、多少ともその頃の時代背景を知らないと、そこに盛り込まれた林達夫一流の「反語的精神」、すなわちアイロニーを味読することは難しい。

 それに比べて、ここに掲げた『思想のドラマトゥルギー』は哲学者久野収との談論風発の対話集であり、格好の「林達夫入門」と言ってよい。最近「役に立たない学問」としてやり玉に挙げられている人文学が、いかに深い奥行きと幅広い展望をもった学問であるかを、読者は対話の行間から感得されるに違いない。そして久野が指摘する「京都学派の中で、林達夫、中井正一、花田清輝とつづく一つのライン」こそは、まさに「愉しい学問」(ニーチェ)の何たるかを教えてくれる知的系譜なのである。




2020年

『安吾のいる風景/敗荷落日』
石川淳著
講談社文芸文庫

 石川淳は私の偏愛する作家である。彼のことを澁澤龍彦はかつて「もっとも醇乎たる日本語の伝統を保持している作家」(『偏愛的作家論』)と呼んだことがある。その伝統の源流を尋ねれば森鷗外に行き着き、流れを下っては安部公房や丸谷才一の沃野を潤す。水声の届く流域は広大無辺、筆の勢いの赴くところ、小説はもとより評論、戯曲、随筆、翻訳、連句と文芸百般に及ぶ。何をもって第一とするかは人によって異なるはずである。

 大正14年(1925)、フランス語講師として赴任した福岡高校で、学生運動を教唆扇動したとの咎で辞職勧告を受け、のち退職。昭和13年(1938)、短編「マルスの歌」が反軍国思想を疑われ雑誌は発禁処分、自身は罰金刑を受ける。敗戦後の昭和21年に「黄金伝説」や「焼跡のイエス」など焼跡闇市を活写する作品を発表するも、前者は占領軍の忌諱に触れる恐れから小説集に収録することを断念。こう摘記してくると、いかにもレジスタンスの闘士と見まがう閲歴だが、石川自身は戦時中もっぱら「江戸に留学」していたと嘯いた。太田南畝ら風狂詩人への耽溺である。戦後は夷斎と号して狷介孤高の随筆に腕を揮う。

 大正アナーキストの悲喜劇を描いた『白頭吟』や全共闘運動に触発されたという『天馬賦』などの長編、敗戦後の荒廃と混乱の中に一縷の希望を見いだそうとする短編群も捨てがたいが、石川淳の文業においては、私はやはり批評文を第一とする。代表作『森鷗外』(岩波文庫、ちくま学芸文庫)は次のように始まっている。

 「『抽斎』と『霞亭』といずれを取るかといえば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味なことはいわないつもりである。この二篇を措いて鷗外にはもっと傑作があると思っているひとびとを、わたしは信用しない。『雁』などは児戯に類する。『山椒大夫』に至っては俗臭芬々たる駄作である。」

 石川淳の文体の魅力は、何よりもこの畳みかけるような断言肯定命題の潔さに存する。断言肯定命題とは、谷川雁によれば「一片の詩に内在する命題」(『影の越境をめぐって』)のことである。その意味で、石川の散文は詩と境を接する。疑うならば、本書に収録された「安部公房著『壁』序」を読んでみられるのがよい。

 ところで、先の引用に続けて、石川は「では、おまえはどうだときかれるであろう。ただちに答える『抽斎』第一だと。そして付け加える。それはかならずしも『霞亭』を次位に貶すことではないと」と追い討ちをかける。この間を置かない裂帛の気合いこそ石川淳の本領にほかならない。

 あまたある批評文の中で白眉と言うべきは、本書の表題ともなっている坂口安吾と永井荷風に対する追悼文である。ともに「無頼派」と呼ばれた盟友坂口安吾に対する哀惜の辞は「花の下には風吹くばかり」という安吾の言葉を引いて閉じられている。他方、「一箇の老人が死んだ」で始まる荷風への悼辞は秋霜烈日、死者を鞭打つ体の容赦ない筆誅が加えられている。この苛烈な一文は、晩年の荷風の「肉体の衰弱ではなくて、精神の脱落」をあげつらい、「日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの、一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一灯をささげるゆかりも無い」と結ばれている。

 私は心弱く志萎えようとするとき、深更この「敗荷落日」を書棚から取り出し、おもむろに再読三読することで、わが身に「精神のエネルギー」を充電するのを常としている。いわば私にとって、石川淳の文章は、惰気と眠気とを払う一握りの警策なのである。



2021年

学問のすゝめ
福沢諭吉著
岩波文庫


福沢諭吉の『学問のすゝめ』と聞いて、一万円札の顔も交代しようかというこの時節に、何を今さらと思われた方が大半であろう。だが、そのなかで本書を原文で通読された方は何人おられるであろうか。むろん「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という冒頭の一文は、今どき小学生といえども知っている。しかし、その後に「と言えり」という言葉が続き、これが引用文であること、しかもそれがアメリカ独立宣言(1776年)の福沢流の〈超訳〉であることを、果してご存知であろうか。えてして「古典」とは、名のみ知られて実際に読まれえることの少ない書物のことである。

私は東北大学文学部を定年退職後、総長特命教授として担当した新入生必修の「基礎ゼミ」において、さらに放送大学宮城学習センターの面接授業で、この『学問のすゝめ』をテキストに取り上げたことがある。
基礎ゼミでは「近代日本の名著を読む」と題して福沢のこの書をはじめ、中江兆民『三酔人経論問答』、内村鑑三『代表的日本人』、新渡戸稲造『武士道』、岡倉天心『茶の本』、九鬼周造『いきの構造』などの著作を二週間に一冊読み上げ、提出されたレポートをもとに討論を行った。高校卒業したての一年生にとっては、少々ハードなゼミであったが、ほとんどの学生が最後まで付き合ってくれた。このうち内村、新渡戸、岡倉の著作は、もともと英語で書かれたものである。明治人の気骨と気概を想わざるをえない。

基礎ゼミの終了後に打上げコンパを開き(といっても、最近の大学では未成年者の飲酒は厳禁である)、参加者からそれぞれ感想を聞いた。一人の女子学生が「私の本棚にはこれまで岩波文庫が一冊もなかった。このゼミのおかげで、数冊もの岩波文庫が書棚に勢ぞろいしたことがとても嬉しい」と語ってくれた。この感想は、私にとっても我が意を得た嬉しいものであった。その女子学生は、福沢が年少の折、家計を助けるために按摩のアルバイトをしたと私が解説したところ、「アンマって何ですか?」と真顔で尋ねた学生でもある。マッサージ師のことだと説明したが、今や若い世代には按摩も死語と化しているようだ。

放送大学の面接授業の方は、「福沢諭吉における科学と哲学」のタイトルのもと、『学問のすゝめ』と『文明論之概略』をテキストに講義を行った。こちらの方でも授業終了後に受講生から一言ずつ自由に感想を述べてもらった。すると一人の年配の女性が手を挙げて、自分は田舎の旧家に嫁いで、数々の陋習に苦しい思いをしてきたが、明治時代にこのようなことを主張する男性がいたことは、驚きであると同時に感激したと言ってくれた。彼女が驚愕と感激を覚えたのは、『学問のすゝめ』八編の以下のような一節である。

「今世間を見るに、力ずくにて人の物を奪うか、または人を恥かしむる者あれば、これを罪人と名づけて刑にも行わるる事あり。然るに家の内にては公然と人を恥かしめ、嘗てこれを咎むる者なきは何ぞや。(中略)女大学に婦人の七去とて、淫乱なれば去ると明らかにその裁判を記せり。男子のためには大いに便利なり。あまり片落なる教えならずや。」

現代風には、前半はDV禁止の要請、後半は不倫をめぐる男女不平等に対する告発、とでも言えようか。ともかく福沢の論旨は、元首相の女性蔑視発言が問題となる現代でも十分に通用する。逆に言えばこの150年間、日本社会は福沢の発言とまともに向き合ってこなかったのである。
「論理国語」なる面妖な新科目で無味乾燥な「実用文」を読ませるよりは、論理的思考力に基づいた議論の言葉を身に付けるには、すべからく高校生に福沢の『学問のすゝめ』を声に出して朗唱させるべきだと考えるが、いかがであろうか。本書には現代語訳(岩波現代文庫、ちくま新書など)やマンガ版(イースト・プレス)もあるが、やはり格調ある原文のリズムを味読されたい。なお、福沢の思想をより深く知りたい向きには、丸山眞男『福沢諭吉の哲学』(岩波文庫)をお勧めする。


2022年

時間と自己
木村敏著
中公新書

昨年(2021)8月に90歳で亡くなられた精神病理学者木村敏先生(以下、これまでのご厚誼に免じて「木村さん」と呼ばせていただく)の代表作である。木村さんは河合文化教育研究所とも縁が深く、長く主任研究員・所長を務められたとともに、例年の「河合臨床哲学シンポジウム」を18年にわたって主宰してこられた。

私の手元にある「時間と自己』(1982年初版)は傍線やマーカーや書き込みで満身創痍、付箋で2倍ほどにも膨れ上がり、おまけに背が割れて頁が脱落しかかっている。いま机上にあるのは2冊目の24版である。哲学の行論が行き詰まると、私は本書をランダムに開いて読み始めるのを常にしている。

本書の主題は「さまざまな精神病理現象を、自己の病理であると同時に時間の病理でもあるような事態と見る」(185、数字は本書の頁を示す)ことにある。第一部「こととしての時間」は「もの」と「こと」との存在論的差異を明らかにすることから始まる。「リンゴが木から落ちる」という事態は、リンゴという客観的なモノと、それが落ちるというコトの主観的経験から成る。この事態は「こう言ってよければ客観と主観のあいだにある」(10)のである。「あいだ」が木村さんのキーワードであることは言うまでもない。

それゆえコトが成立するためには、私が主観としてそこに「立ち会っているということが必要」(18)になる。これは、コトが私(自己)の「いま」という時間を占めていることを意味する。しかも「自分」とか「自己」は「実はものではなくて、自分ということによって成り立っている」(27)のである。つまり、時間も自己もコトにほかならない。

第二部「時間と精神病理」では、この自己と時間との根源的な関わりという観点から、各種の精神疾患の様態が解明される。すでに木村さんの代名詞ともなっているが、分裂病者(統合失調症者)の未来先取り的な時間意識を「アンテ・フェストゥム(前夜祭的)」、鬱病者の手遅れ的な時間意識を「ポスト・フェストゥム(あとのまつり)」、さらに癲癇と躁病者の圧倒的な現在優位の時聞意識を「イントラ・フェストウム(祭のさなか)」と特徴づける、祝祭を軸にした分類体系がそれである。

とりわけ三番目の「イントラ・フェストゥム」は木村さんの独創と言うべき概念であり、それは前二者と対比して「いわば垂直の次元、深さの次元である」(159)とも語られている。さらに木村さんによれば、狂気や非理性と言われてきたものは、「実は人間存在に普遍的なこのイントラ・フェストゥムのことを指しているのではないか」(160)とまで問いかける。まさに木村人間学の到達地点と呼ぶべき洞察である。
今回久方ぶりに本書を通読して、木村さんが亡くなられたせいでもないだろうが、「死」への言及が多いことに少々驚かされた。たとえば「祝祭はつねに死の原理によって支配されてもいる」(161)あるいは「大いなる死とは、永遠の別名にほかならない」(155)といった具合である。さらに「あとがき」には「私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか」(191-2)との言葉も見える。
いまごろ木村さんは幽明境を異にされた彼方で、この「だれか」と出会っておられるのであろうか。合掌。