第18回 河合臨床哲学シンポジウム「あいだと間」
◆第18回 河合臨床哲学シンポジウム「あいだと間」が
2018年12月9日(日)、東京大学弥生講堂一条ホールにて
開催されました。
「河合臨床哲学シンポジウム」は、精神科医と哲学者が同じテーマをめぐって徹底的な議論をする日本でも稀有なシンポジウムとして、河合文化教育研究所所長で精神医学者の木村敏氏の主宰によって、2001年から毎年開催されてきたものです。
今回はその18回目にあたりますが、「あいだと間」と題する今回のシンポジウムも、250名もの多くの方々の参加を得て、盛況のうちにとりおこなわれました。
今回は主宰者の木村敏氏が、体調不良のため欠席という事態になり、そのため会の冒頭で総合司会の野家啓一氏より、以下のような木村敏氏の「ごあいさつ」が代読されました。
なお、その「ごあいさつ」にもあるように、多くの方々の温かいご支援のもと18年間の長きにわたって続いたこの河合臨床哲学シンポジウムは、今回で一旦幕を閉じさせていただくことになりました。
ごあいさつ
本日は、この第18回の河合臨床哲学シンポジウム「あいだと間」に、主宰者である私が欠席することになってしまい、たいへん申し訳なく、また残念に思っております。
今回のテーマ「あいだと間」は、ご存じのように私の研究テーマにも直接関わるものです。この春に、テーマが「あいだと間」に決まったときから、私自身今日のシンポジウムでみなさまと一緒にご議論させていただくのを楽しみにして参りました。しかしこの数日の体調と体力が、京都から東京への長旅に耐え得ないだろうということになり、残念ながら欠席させていただく次第です。
実は今年の6月に名古屋での研究会で圧迫骨折をしまして、それ自体はその後の入院とリハビリのお蔭でほぼ完治しましたが、やはりその影響が出たものと思われます。今回のシンポジストの方々のお原稿がたいへん興味深く、また私の仕事にも言及して下さっていますので、それだけに欠席しなくてはならないのがいっそう残念でなりません。ご了承いただければ幸いです。
さて、司会の野家さんからもお話しがあると思いますが、もう一つお伝えしなくてはならないことがあります。実は、臨床哲学シンポジウムを、今回で一旦幕を閉じさせていただこうということです。私自身の年齢もあり、いつまでも私が前面に出るべきではないだろうということで、このことを決断した次第です。野家さん谷さんをはじめとする準備委員会の方々や多くの関係者の方からは、もう少し続けてほしいというお言葉をいただきましたが、この後は若い方に新たな問題意識で新たなものを作っていっていただくのがいいだろうと考えております。
みなさまには、長いあいだこの臨床哲学シンポジウムを温かく支えていただき、深く感謝しております。この、精神病理学と哲学に橋を架けるという特異なシンポジウムを、2000年暮れから本日2018年暮れまでの18年間の長きにわたって、常に新鮮な思いと喜びで続けることができましたのも、ここに集まって下さったみなさまのお蔭です。みなさまとは、この臨床哲学シンポジウムを通して、何か新しいもの、まだ名づけようのない何か新しいものを一緒に生み出すことができたのではないかと思います。
本当に長いあいだ温かいご支援をいただき、ありがとうございました。
みなさまへの心からの感謝を申し上げて、ごあいさつにさせていただきたいと思います。
木村敏
その後、総合司会のもとに、4名のシンポジストからの発表に対して
二人のコメンテーターがコメントをする形式をとり、最後には会場からも質問を受け付け、全体討論をおこないました。
第18回 河合臨床哲学シンポジウム「あいだと間」
主催:河合文化教育研究所
日時:2018年12月9日(日)<11:00~18:00>
会場:東京大学 弥生講堂 一条ホール
出席者
・シンポジスト
村上陽一郎(東京大学・国際基督教大学 名誉教授)
宮内 勝 (元・東京藝術大学楽理科 講師)
阪上正巳(国立音楽大学 音楽文化教育学科 教授)
野間俊一 (京都大学大学院 医学研究科 脳病態生理学講座精神医学 講師)
・コメンテーター
谷 徹 (立命館大学文学部人文学科哲学専攻教授、間文化現象学研究センター長)
内海 健 (東京藝術大学保健管理センター教授)
・総合司会
野家啓一 (東北大学名誉教授・総長特命教授)
◆あいさつ
木村敏 (代読 野家啓一)
◆ 発 表
野間俊一
「〈あいだ〉の眼差し」(発表1)
・コメンテーターとの討論
・コメンテーターとの討論
阪上正巳
「統合失調症者の音楽表現とあいだ」 (発表3)
・コメンテーターとの討論
村上陽一郎
「〈あいだ〉と〈ま〉のはざま」 (発表4)
全体討論
趣意書
〈あいだ〉や〈間(ま)〉について語ることは難しい。それは、ときに不可能とすら見える。というのも、〈あいだ〉は在るようで無く、無いようで在る無限定の存在だからである。それは〈もの〉や〈ひと〉のように自存して在るものではない。だが逆に、〈あいだ〉がなければ、〈もの〉も〈ひと〉も支えを失い、在ることはできない。
〈あいだ〉のない世界には、稠密に充満した無差別の拡がり(延長)が在るだけである。それは空間ですらない。〈もの〉や〈ひと〉を容れる余地 (space) をもたないからである。したがって、そこには上下左右の区別もない。無差別の連続体に切れ目を入れることによって初めて、〈あいだ〉は出現する。デデキントではないが、切断は連続体を二つの領域に分割する。それによって、〈もの〉と〈もの〉との間には「距離」が、〈ひと〉と〈ひと〉との間には「関係」が生ずる。言い換えれば、切断は〈あいだ〉をもたらす世界の分節装置であり、〈もの〉や〈ひと〉の個体化の原理でもある。〈あいだ〉を通じて、世界は sens すなわち方向と意味とを身に帯び始める。
同様のことは時間についても言える。隙間のない充溢した連続体に時間は流れない。前後の区別を可能にする切断を通じて、時は流れ始める。音と音とは〈あいだ〉に隔てられることによって逆に結びつき、妙なる楽曲となる。しかし、水平の〈あいだ〉を手に入れただけでは、音はまだ人の心に響かない。それはクロノスという「過去から未来に向かって飴のように延びた時間」(小林秀雄「無常といふ事」)を生ずるだけである。音の連なりがニーチェの言う「音楽の精霊」を宿すためには、カイロスの手助けを必要とする。それを好機(チャンス)やタイミング、あるいは垂直の〈あいだ〉と言い換えてもよい。
同じ機制は自己の成立にも働く。昨日の自己と今日の自己の同一性を支えるのは、水平の〈あいだ〉である。だが、それだけでは足りない。自己が自己となるためには、自らを垂直の〈あいだ〉に投錨しなければならない。その垂直の〈あいだ〉を木村敏は「生命一般の根拠」と呼んだ。自他関係、すなわち私と汝の差異と同一もまた、この根拠に与かっているのである。
〈あいだ〉は物と物、人と人とを結びつけると同時に切り離す。ジンメルならば「人間は、事物を結合する存在であり、同時にまた、つねに分離しないではいられない存在だ」(「橋と扉」)と言うであろう。分離の象徴が「壁」であるとすれば、結合のそれは「橋」である。「日本の橋」のなかで、保田与重郎は「ものをつなぎかけわたすという心から、橋と愛情相聞の関係はずい分に久しいもののようである」と述べた。時空の端緒から橋上の出会いと別れ、そして間柄の倫理まで、〈あいだ〉は森羅万象を象り司るアルケー、すなわち「無限定なるもの(ト・アペイロン)」にほかならない。 (野家啓一)
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◎第18回 河合臨床哲学シンポジウム 開催のご案内
(プロフィール等はパンフレットをご覧ください)
第18回 河合臨床哲学シンポジウム「あいだと間」
日時 : 2018年12月9日(日) 11:00~18:00
会場 : 東京大学 弥生講堂 一条ホール
〒113-8657 東京都文京区弥生1-1-1 東京大学弥生キャンパス内
《参加費1000円(資料代含む)/学生無料》
第18回河合臨床哲学シンポジウム.18ポスター.pdf
◎パンフレットはこちらをクリックしてご覧下さい。
第18回河合臨床哲学シンポジウム 2018パンフ三つ折り外・内.pdf
出席者
◇ 挨拶
木村 敏(河合文化教育研究所所長・主任研究員)
◇ シンポジスト
村上陽一郎(東京大学・国際基督教大学 名誉教授)
宮内 勝 (元・東京藝術大学楽理科 講師)
阪上正巳(国立音楽大学 音楽文化教育学科 教授)
野間俊一 (京都大学大学院 医学研究科 脳病態生理学講座精神医学 講師)
◇総合司会
野家啓一 (東北大学名誉教授・総長特命教授)
◇コメンテーター
谷 徹 (立命館大学文学部人文学科哲学専攻教授、間文化現象学研究センター長)
内海 健 (東京藝術大学保健管理センター教授)
プログラム
11:00 野間俊一 (発表1)
「〈あいだ〉の眼差し」
・コメンテーターとの討論
12:00 宮内 勝 (発表2)
「音楽における『間』と『あいだ』」
・コメンテーターとの討論
13:00 昼食( ~14:00)
14:00 阪上正巳 (発表3)
「統合失調症者の音楽表現とあいだ」
・コメンテーターとの討論
15:00 村上陽一郎 (発表4)
「〈あいだ〉と〈ま〉のはざま」
・コメンテーターとの討論
16:00 休憩( ~16:15)
16:15 全体討論( ~18:00))
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