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河合臨床哲学シンポジウム(第10回~第12回)

河合臨床哲学シンポジウム(第10回~第12回)

 

第12回河合臨床哲学シンポジウム
臨床哲学とは何か


主催:河合文化教育研究所
日時:2012年12月16日 11:00~18:00
会場:東京大学鉄門記念講堂

12回 第12回を迎えた臨床哲学シンポジウムは、ひとつの節目となる。今回は、本臨床哲学シンポジウムを精神医学から主導してきた木村敏氏と、哲学から臨床哲学を立ち上げてきた鷲田清一氏に登壇いただき、そこに指定討論が加わるという特別企画となった。
 私自身は精神科医であるがゆえに、木村敏氏の、おもに内因性精神病の臨床経験から、自己論、時間論を経て生命論的差異という独自の構想へ進んだ骨太な思想の流れは、身近なものとなっている。鷲田清一氏については、壮麗な整合的体系を作りあげるという哲学の通説を覆し、聴取の力と起結を持たないエッセイの力を表舞台に出す構想が、精神医学の経験を広く取り込み、その冪乗を精神医学にも送り返していることを読みとる。
 以下ごく手短に、未完成ながら私的な問題意識を述べたい。


 3つの透明性を考えてみる。他者の透明さ、自己の透明さ、そして精神疾患に付随する透明さである。3種類の透明さに触れることには、それぞれに含意がある。それはまずは、本来不透明なはずの他者も透明に与えられる面がありそうだが、何がそれを可能にしているのか、一方、自己には自己に不透明なところがありそうだが、それはいかに生じてくるのかという問である。そしてさらに、精神疾患には、われわれに、「何か」を、独特の仕方で透明に与えるところがあるのではないかという展望である。
 とりわけこの3つ目に挙げた透明さが、われわれにある道筋を辿らせるのではないか。それは、元来語り得ないように見える経験の深奥に達する語り、「0次からの語り」を紡ぎ出す道筋である。この道筋は多様であってよいが、強靭な思考により拓かれ、繋がっていなければならないであろう。ここで精神医学は、哲学的思考力を必要とする。同時に、とはいっても、この道筋の繋がりを作る思考が、その強靭さに自閉し、実践に体系的抑圧をかけてはならないであろう。そこで入れ替わりに現れてくるのが、哲学に発する臨床哲学が強調する関係の「独自性」ではないか。ただし、このことを治療場面で問題にするとき、けっして特権的治療局面のことだけが問題となるわけではないだろう。特別な転回点なく進んだ治療、マスに適用されて十分有効な治療を、次元の低いものと考える必然性はわれわれにはない。そうでなければ、精神医学の領域には、無数の凡庸な治療と、特権的だがある種のいかがわしさを払拭し得ないエピソードが残るということになりかねない。それでも、関係の独自性は常に治療の場にあり、柔軟にそこで働き続けているし、働き続けていなければならないと言ってよいのではないか。
 多くの交錯を期待しつつ当日の議論を待ちたい。 


■ PROGRAM121木村
〔 発表 〕
木村 敏「臨床の哲学」
鷲田清一「哲学の臨床」
〔 討論 〕
第1部 発表者とコメンテーターによる討論
第2部 フロアからの質問も含めて全体討論


■ PROFILE
●シンポジスト
木村 敏
1931年生まれ。
京都大学名誉教授、河合文化教育研究所所長・主任研究員。
精神病理学。
主著:『関係としての自己』(みすず書房)、『分裂病の詩と真実』(河合文化教育研究所)、『木村敏著作集』全8巻( 弘文堂)。

鷲田清一
1949年生まれ。12鷲田
大谷大学教授。
哲学。
主著:『「聴く」ことの力』(阪急コミュニケーションズ)、『顔の現象学』(講談社学術文庫)、『メルロ=ポンティ』(講談社)。


●司会者
谷 徹
1954年生まれ。
立命館大学文学部人文学科哲学専攻教授、間文化現象学研究センター長。
哲学。
主著:『意識の自然』(勁草書房)、『これが現象学だ』(講談社現代新書)。

内海 健
1955年生まれ。
東京藝術大学保健管理センター教授。
精神病理学。
主著:『うつ病の心理』(誠信書房)、『パンセ・スキゾフレニック』(弘文堂)、『さまよえる自己』(筑摩選書)。


●コメンテーター
野家啓一
1949年生まれ。
東北大学大学院文学研究科教授。
現代哲学・科学哲学。
主著:『科学の解釈学』( ちくま学芸文庫)、『物語の哲学』(岩波現代文庫)、『パラダイムとは何か』(講談社学術文庫)。

鈴木國文
1952年生まれ。
名古屋大学大学院医学系研究科リハビリテーション療法学専攻教授。
精神病理学。
主著:『神経症概念はいま』(金剛出版)、『トラウマと未来』(勉誠出版)、『時代が病むということ』(日本評論社)。

兼本浩祐
1957年生まれ。
愛知医科大学精神医学講座教授。
精神病理学、臨床てんかん学。
主著:『てんかん学ハンドブック』(医学書院)、『心はどこまで脳なのだろうか』(医学書院)。

出口康夫
1962年生まれ。
京都大学大学院文学研究科准教授。
哲学。
主著:『応用哲学を学ぶ人のために』(共編著・世界思想社)、『これが応用哲学だ!』(共編著・大隅書店)、『心と社会を科学する』(共著・東大出版会)。

 

 

第11回河合臨床哲学シンポジウム
他者の諸相、他性の諸相


主催:河合文化教育研究所
日時:2011年12月11日 11:00~18:00
会場:東京大学鉄門記念講堂


11回 画布に雫が一滴垂らされる。ときにそれは不思議な色彩の形象に開花する。楽曲の再現のために鍵盤の上に手が置かれる。熟練の手の上には、ときに労苦の多い練習の成果から予想されるところを越えた響きが舞い降りる。このような例は、我々の活動に見られるほんの一例である。日常の行為、会話も、ときにわれわれが考えもしなかったところへ向かい、そこで開花する。もちろん、何らの意図も実現できずに終わる動作、同じく予想を越える方向へ展開するにしても、尋常ならざる苦しみや葛藤へと突き進むことになる会話も数多いことは言うまでもない。
 ところで、われわれが予想できないところへとわれわれの行為を運んでいくもの、それを他者であると、それもその多くは一度もわれわれに現前することのない他者であると言ってはいけないだろうか。
 他者を言うならば、行為を運ぶものについてのみ語るわけにはいかない。われわれに行為を起始せしめるもの、それもまた他者ではないだろうか。他者は、面前からも時間的、地理的遠隔からも、現前からも無意識からも、そして非現前からでさえ、われわれに合図し、ときに挨拶を送り、ときに命令する。
 行為が運び去られたその先で開花する際にも、行為が新たに起始せしめられるときにも共通して言えることは何であろうか。私にはここで、ヴァイツゼッカーの「不可能なものだけが実現される」というテーゼが思い出される。その実現の扉の蝶番のところに控えている他者がいるのではないかという予感とともに。
 未曾有の震災というカタストロフの後、われわれには、猥雑な言葉を他者に向けることの空しさの感覚が生じたように思う。しかし同時に、猥雑な言葉に没入しなければいかなることも語れないという恥と覚悟が生まれたようにも思う。われわれは猥雑さにつきまとわれ、有責性につきまとわれ、差し迫った不幸につきまとわれている。それでもそれを自分の目の前から取り除いておくこともできる。このような能力を持ち得るということを、「否定妄想」という言葉で、つまりあるものをないと信じこむことのできる能力として表現したのもヴァイツゼッカーであった。猥雑さ、有責性は他者とともにわれわれが在る証である。それならば、われわれが「否定妄想」を携えて人生を生きながらえることを可能にしてくれているものは何か。それもある他者ではないか。
 ここにすでにいくつかの他者を述べたが、それでもそれらは、われわれがすでに馴染んでいたり、とりわけ精神科医がよく出会っていたりする他者の諸相のほんの一部に過ぎない。あらゆる多様さをもった他者がこのシンポジウムに招き入れられようとしている。そこで何かを実現させる他者について何もわれわれが知らないままに。
※ヴァイツゼッカーの引用は、木村敏訳『パトゾフィー』(みすず書房)による。


■ PROGRAM
〔 発表 〕 村上靖彦「 生と死の境目における対人関係──看護師へのインタビューから」
柴山雅俊「 解離の病態における自己と他者」
川瀬雅也「 思い出せない他者・忘れられない他者」
花村誠一「 統合失調症における他者と強度」
〔 討論 〕 第1部 発表者とコメンテーターによる討論
第2部 フロアからの質問も含めて全体討論


●シンポジスト
花村誠一
1947年生まれ。
東京福祉大学社会福祉学部教授。
精神病理学、精神療法。
主著:『現代精神学の20年』(編著・星和書店)、『分裂病論の現在』(編著・弘文堂)、『精神医学──複雑系の科学と現代思想』(共著・青土社)。

柴山雅俊
1953年生まれ。
東京女子大学現代教養学部人間科学科心理学専攻教授。
精神病理学。
主著:『解離性障害──うしろに誰かいるの精神病理』(ちくま新書)、『解離の構造──私の変容と〈むすび〉の治療論』(岩崎学術出版社)。

川瀬雅也
1968年生まれ。
佐世保工業高等専門学校一般科目准教授。
哲学。
主著:『経験のアルケオロジー』(勁草書房)。

村上靖彦
1970年生まれ。
大阪大学大学院人間科学研究科准教授。哲学。
主著:『Levinas phenomenologue』(J. Millon)、『自閉症の現象学』(勁草書房)、『傷と再生の現象学』(青土社)。

●開会挨拶・全体討論
木村 敏
1931年生まれ。
京都大学名誉教授、河合文化教育研究所所長・主任研究員。
精神病理学。
主著:『関係としての自己』(みすず書房)、『分裂病の詩と真実』(河合文化教育研究所)、『木村敏著作集』全8巻( 弘文堂)。


●司会者
谷 徹
1954年生まれ。
立命館大学文学部人文学科哲学専攻教授、間文化現象学研究センター長。
哲学。
主著:『意識の自然』(勁草書房)、『これが現象学だ』(講談社現代新書)。

内海 健
1955年生まれ。
東京藝術大学保健管理センター准教授。
精神病理学。
主著:『精神科臨床とは何か』(星和書店)、『うつ病の心理』(誠信書房)、『パンセ・スキゾフレニック』(弘文堂)。


●コメンテーター
野家啓一
1949年生まれ。
東北大学理事・附属図書館長・大学院文学研究科教授。
現代哲学・科学哲学。
主著:『科学の解釈学』(ちくま学芸文庫)、『物語の哲学』(岩波現代文庫)、『パラダイムとは何か』(講談社学術文庫)。

津田 均
1960年生まれ。
名古屋大学学生相談総合センター・大学院医学系研究科准教授。
精神病理学。
主著:『統合失調症探求』(岩崎学術出版社)、『空間と時間の病理』(共著・河合文化教育研究所)、『現代うつ病の臨床』(共著・創元社)。

 

 


第10 回河合臨床哲学シンポジウム
自己──語りとしじま

主催:河合文化教育研究所
日時:2010年12月11日 11:00~18:00
会場:東京大学鉄門記念講堂


10回 ハスキンズが「12 世紀ルネサンス」ということを言い出したのが1927年のことである。この世紀には、ゴシック建築の成立、ポリフォニーの登場など、さまざまな分野で西欧文化が離陸しはじめるのだが、とりわけ重要なのはアラビアからの知の移入であった。幾度となく交錯したヘブライズムとヘレニズムが、12 世紀になってようやく決定的な出会いを遂げるのである。それ以降、ヨーロッパの精神史は加速される。哲学においては13 世紀にトマス・アクィナスが現れる。彼の中でカトリックとアリストテレスが出会い、信仰と知がぶつかりあうことになる。意外なことに思われるかもしれないが、およそ蔵書などとは縁のなさそうなデカルトとウィトゲンシュタインの二人が、トマスのスンマ(『神学大全』)を手元に置いていたという。
 12 世紀ルネサンスは何をもたらしたのか。結果からみるかぎり、それは神からまず自然を、そして人=キリストを解放することだったのかもしれない。おそらくユニタリアンでなかったら、ニュートンの創造はありえなかっただろうし、彼が神からのメッセージに聞き入っていたことがあったとしても決して不思議ではない。しかし超越的な他者が直接語りかけてくる構図は、近代的な自己が自立するためには一度はくぐりぬけなければならない関門となった。デカルトもカントも、これをどうさばくか、その生と哲学の双方で腐心した。その声は次第に遠ざかりつつあったが、いつなんどき不意に襲われるともかぎらぬ不安はその後もつきまとった。
 しかしいざ、その声も消えうせてしまうと、自己は反響しない世界の中に置き去りにされることになる。ウィトゲンシュタインの自己は、世界と折り重なり、あるいは世界の限界にかろうじて身を滑り込ませる。レヴィナスはホロコースト以後の世界を、永遠の不眠になぞらえ、ただただ自己でしかないものとして「イリヤ」を措いた。そして世上では、自己はそのつどの他者との語らいの中にさまよっている。坂部恵ならこうした自己の有様を〈まつろわぬもの〉と言うかもしれない。
 ともかく、「まつり」も「まつりごと」も、消え失せたとはいわぬまでも、すくなくともひどくかげの薄くなった、「神なき時代」、「父なき時代」としての今日、さきにみたように「異端」にたいする「正統」は世俗的なものでこと足りると一応はいえるとしても、ここまで「世俗化」が進んでしまうと、「まつろわぬもの」として生き通すこと、ないし死に場所を求めることはひどくむずかしいのだ。
(坂部恵「「まつろわぬもの」の「まつり」」)
 歴史の限界に立ちつつ、坂部がさらにどう言葉を紡いでいこうとしていたのだろうか。そんな思いを胸に秘めつつ、もう一度〈まつろわぬもの〉について思考を立ち上げてみよう。

■ PROGRAM
〔 発表 〕
岡一太郎「 偶然・自己・自然──妄想知覚に関する一試論」
永井 均「 『自己』という概念に含まれている矛盾」
木村 敏「 自分が自分であるということ」
野家啓一「 物語る自己/物語られる自己」

〔 討論 〕
第1部 発表者とコメンテーターによる討論
第2部 フロアからの質問も含めて全体討論

■ PROFILE
●シンポジスト
木村 敏
1931年生まれ。
京都大学名誉教授、
河合文化教育研究所所長・主任研究員。
精神病理学。
主著:『関係としての自己』(みすず書房)、『分裂病の詩と真実』(河合文化教育研究所)、『木村敏著作集』全8巻(弘文堂)。

野家啓一
1949年生まれ。
東北大学理事・附属図書館長・大学院文学研究科教授。
現代哲学・科学哲学。
主著:『科学の解釈学』(ちくま学芸文庫)、『物語の哲学』(岩波現代文庫)、『パラダイムとは何か』(講談社学術文庫)。

永井 均
1951年生まれ。
日本大学文理学部教授。
哲学。
主著:『私・今・そして神』(講談社現代新書)、『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店)、『転校生とブラック・ジャック』(岩波現代文庫)。

岡 一太郎
1965年生まれ。
もみじヶ丘病院勤務。
精神病理学。
論文:
“Zur Psychopathologiedes Als-ob”( Der Nervenarzt 2007)、“Zur schizophrenen Gemachtheit”(DerNervenarzt 2008)、「対人恐怖と社会恐怖の比較文化研究」(精神神経学雑誌2009)。

●司会者
谷 徹
1954年生まれ。
立命館大学文学部人文学科哲学専攻教授、間文化現象学研究センター所長。
哲学。
主著:『意識の自然』(勁草書房)、『これが現象学だ』(講談社現代新書)。

津田 均
1960年生まれ。
名古屋大学学生相談総合センター、大学院医学系研究科准教授。
精神病理学。
主著:「境界の哲学と精神科臨床」『身体・気分・心──臨床哲学の諸相』(河合文化教育研究所)、『現代うつ病の臨床』(創元社・共著)。

●コメンテーター
加藤 敏
1949年生まれ。
自治医科大学精神医学教室教授。
精神病理学。
主著:『構造論的精神病理学』(弘文堂)、『創造性の精神分析──ルソー、ヘルダーリン、ハイデガー』(新曜社)、『統合失調症の語りと傾聴─ EBM からNBM へ』(金剛出版)、『人の絆の病理と再生──臨床哲学の展開』(弘文堂)。

熊野純彦
1958年生まれ。
東京大学文学部教授。
倫理学、哲学史。
主著:『レヴィナス』(岩波書店)、『差異と隔たり』(岩波書店)、『西洋哲学史』(全二冊、岩波新書)、『和辻哲郎』(岩波新書)。