第13回河合臨床哲学シンポジウム「臨床哲学とは何かⅡ」
第13回河合臨床哲学シンポジウム「臨床哲学とは何かⅡ」
主催 : 河合文化教育研究所
日時 : 2013年12月8日 11:00~18:00
会場 : 東京大学鉄門記念講堂
プログラム
【発表1】
木村 敏「感性と悟性の統合としての自己の自己性
-超越論的構想カの病理-」
【発表2】
野家啓一「臨床と哲学のあいだ・再考」
【討論】
第1部 発表者とコメンテーターによる討論
第2部 フロアからの質問も含めて全体討論
出席者
・シンポジスト
木村 敏
野家啓一
・コメンテーター
谷 徹
内海 健
榊原哲也
津田 均
・司会
鈴木國文
浜渦辰二
趣意書
今回の臨床哲学シンポジウムは、昨年の第12回の「臨床哲学とは何か」のテーマを引き継ぎ、「臨床哲学とは何かⅡ」と題して、「臨床哲学」の根源に向けてさらに一層深くそれ自身を問い続けるシンポジウムとなる。
「臨床哲学」とは、治療者-患者の治療関係を実存を賭けて生きる中で、その底に横たわる自他未分の<生命>(ゾーエー)にまで降り立ち、そこから再び患者との新た治療関係を拓いていく思考であり(木村敏)、また問題が発生している現場に自ら出向いて他者の声を聴こうとするクリニケーの哲学のことでもある(鷲田清一)。いずれにしても、「臨床哲学」を考えるときには、「自己」と「他者」という二者関係が前提される。「臨床哲学」の根源をめざすということは、この二者関係の構造を内側からみつめ直し、その関係がそもそも出立してくる生成の場に思いを馳せるということでもある。
私たちはこの二者関係の一つの極北の姿として、ナチスの強制収容所から帰還した精神科医のフランクルの以下の言葉を想起することも可能かもしれない。「......すなわちもっともよき人々は帰ってこなかった。:die Besten sind nicht zuruckgekommen」(V. E.フランクル『夜と霧』、霜山徳爾訳)
フランクルがこのように語るのは、彼が生還したからであるが、同時に彼の生還の背後に、もはや証言することがかなわぬ何百万人もの死者たちの存在があることを彼が悲痛に自覚しているからでもある。死と飢えと過酷な労働に浸された強制収容所という極限状況にあっては、他者は自己の生存にとっての直接の脅威となる。互いが互いの生命への侵犯者とならざるをえないこのような厳しい二者関係を一つの極とするなら、その対極には他者の呼びかけの声を聴き、互いの応答を通して問題を乗り越えていく連帯の二者関係がある。更にそうした両極にわたる水平の二者関係の直下には、「自己」が「自己」として析出される生成の場に立ち会い、その主要な契機となる「他者」がおり、そこには自・他の始原の二者関係が存在する。
このような自己と他者関係の異次元にわたる多義性に向き合うとき、そもそも「自己」とはだれであり、「他者」とはだれのことか、この二者関係とはどのようなものか、という臨床哲学の根源的問題が新たにいっそう深く問い直されていく。
このシンポジウムのこれまでの12回の営みとは、これらの問いについて、さまざまな角度から吟味し続けてきたアクチュアルな思考の歴史そのものだともいえる。
今回のシンポジウムでは、統合失調症患者という「他者」への深い心配りと考察から生まれた木村敏氏の思考に、野家啓一氏の「臨床哲学」をめぐる氏独自の思考が新たに加わり、魅力的な議論が展開されることになる。哲学と精神医学の革新に向けて、指定討論者も含めてさらに議論が深まっていくことを期待したい。 (K.M.)