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第16回 河合臨床哲学シンポジウム「人称 ── その成立とゆらぎ」

 

第16回河合臨床哲学シンポジウムが開催されました


第16回臨床哲学シンポジウム「人称 ── その成立とゆらぎ」は、会場をあらたに東京大学弥生講堂一条ホールにうつし、12月11日に開催されました。

会場を埋めつくしたおよそ250名の聴衆を前に、シンポジウムは、河合文化教育研究所所長の木村敏主任研究員の挨拶から始まりました。
その後、4名のシンポジストからの発表があり、それに対して二人のコメンテータがコメントをする形式をとり、最後には会場からも質問を受け付け、全体討論をおこないました。



 

 

 

 









第16回 河合臨床哲学シンポジウム
「人称 ―― その成立とゆらぎ」

主催 河合文化教育研究所
日時
2016年12月11日(日)<11:00~18:00>
会場 東京大学 弥生講堂 一条ホール 

 

 出席者

挨拶・全体討論

木村 敏(河合文化教育研究所)



・シンポジスト

谷 徹  (立命館大学)
斎藤 環 (筑波大学)
森 一郎 (東北大学)
清水光恵 (伊丹健康福祉事務所(伊丹保健所)、兵庫県精神保健福祉センター)



・司会 兼 コメンテーター

野家啓一 (東北大学) 
内海 健 (東京藝術大学)




◇ 挨拶

木村 敏(河合文化教育研究所所長)

この二年間、悲しい出来事がありました。そんなお話しから始めなければならないのは本当に残念なことですが、このシンポジウムにごく初期のころから我々一緒にやってきた仲間の一人でありました津田均さんんが昨年の3月に急になくなられました。

それから、もうお一方、昨年のこのシンポジウムでシンポジストとしてお話ししてくださった金森修先生が、今回の論集『生命と死のあいだ』に、お話しされたものを全部きれいにまとめられ、校正まですませて今年の5月におなくなりになりました。去年のうちに自分が死ぬだろうということはご自身も予感しておられるような内容でした。

それから、今回発行した本の、私の「まえがき」にミスプリントがありました。金森さんがなくなったのが「昨年の5月」となっていますが、もちろんそんなことはあり得ないことで、これはまったく不手際なミスで、お詫び申し上げます。

私自身、いつまで持つかわからないような年齢になりましたが、なんとか頑張って皆さんについて行きたいと思っています。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

 

 

発 表


清水光恵 (発表1)

 「自閉スペクトラム症における『私』」 

・コメンテーターとの討論


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森 一郎 (発表2)

 「私には見えないのに、あなたには見えるものって何?」

  ・コメンテーターとの討論


 

 

 

 

 

 

 




 



斎藤 環 (発表3)

  「〈対話〉の中の人称」

  ・コメンテーターとの討論

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 谷 徹 (発表4)

 「私は思考しうるか?」

・コメンテーターとの討論

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コメンテーターとの討論

 

 

 

 

 

 



























全体討論







 

 

 

 

 

 

 

 

 







趣意書

 臨床哲学の成立する現場は、病者と医療者の相互の「あいだ」である。この二人が自分を一 人称、相手を二人称で意識して「対話」をおこなう。ところがこの対話は、自己の自己所属性、自分が「だれ」であるかに大きな問題を含む精神科の病者との場 合には、当事者の「人称」をめぐってある種の不分明ないし「ゆらぎ」に曝される。一人称がかならずしも自分のことに、二人称がかならずしも相手のことに対 応しない。

 昨年のシンポジウムで提題をお願いした金森修 氏は、すでにご自身の死を予知しながら演題「〈遠隔的知識〉としての死」を完結し、本年5月26日に不帰の客となられた。この遺稿で同氏はジャンケレ ヴィッチによる一・二・三人称の死の区別を受け入れた上で、これをポパーの三世界理論と照合し、「三人称の死の拡大解釈」である〈遠隔的知識〉としての死 について論じておられる。ご自身の死を三人称的な「知識」として語られたのである。

  ジャンケレヴィッチは哲学者である前に、すぐれたピアニスト・音楽学者として、ドビュッシーやラヴェルの流れをくむ印象派の作曲家に関わっていた。音楽を 作り出す個々の音は、けっして「もの」としての音響ではない。古典派以来、各個の音には機能和声の働きによって出来事としての、「こと」としての性格を与 えられた。ところがこの「こと」的性格が「もの」的性格をいっそう大きく凌駕し、機能和声をすら解体しようとしたのが印象派である。

 「こと」は「ことば」に掬い取られて人間の言語活動に展開される。人は「自ら」が自然のままに生きているという「こと」を言語的に分節し、そこで生きているのが「だれ」なのかを明示することができる。「おのずから」が「自ら」に先行し、「生きる」が「言う」に先行する。

  リクールに『他者としての自己自身』(“Soi-meme comme unautre”, “Oneself as Another”)という著書がある。この書名について著者自身が書いていることによると、「自己自身の〈自身性〉は他性を内奥に含意していて、一方は他 方なしに考えられない。〈として〉commeの語には強い意味を与えたい。つまり他者のような自己自身という類比の意味でなく、他であるかぎりでの自己自 身soi-meme en tant que … autreという意味である。」著者のこの意向は邦訳題名『他者のような自己自身』では裏切られたが、私としてはこれを最大限に尊重したい。「もの」とし ての自己について言われる「同一性」identite と、「こと」として、「だれ」としての自己について言われる「自己自身性」ipseite とは別なのである。

 アイデンティティは三人称的に語りう る。しかし自己が「自分自身」だと言いうるのは、一人称か二人称、ないしは対話の場でこの二つの人称が不可分に絡み合った局面でしかない。この局面で精神 医学上の多くの病理、とりわけ統合失調症や自閉症スペクトラムが場所を得る。臨床哲学を志すわれわれは、この人称的配分にもっと敏感であってよいのではな いか。 ( 木村 敏)







        


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◎第16回臨床哲学シンポジウム 開催の詳しいご案内
  (プロフィール等はパンフレットをご覧ください)

 
第16回河合臨床哲学シンポジウムを開催いたします。

 

第16回河合臨床哲学シンポジウム「人称 ―― その成立とゆらぎ」

日時 : 2016年12月11日(日) 11:00~18:00

会場 : 東京大学 弥生講堂 一条ホール
    〒113-8657 東京都文京区弥生1-1-1 東京大学弥生キャンパス内

参加費1000円(資料代含む)学生無料

 



 

16回河合臨床哲学シンポジウム.ポスター.pdf

 


◎プログラム・出席者・シンポジウムの趣意はこちらをクリックしてご覧下さい     ト
第16回河合臨床哲学シンポジウム パンフレット(外).pdf
第16回河合臨床哲学シンポジウム パンフレット(中).pdf



 
出席者

◇ 挨拶・全体討論
木村 敏(河合文化教育研究所所長)

◇ シンポジスト
谷 徹  (立命館大学文学部人文学科哲学専攻教授、間文化現象学研究センター長)
斎藤 環 (筑波大学医学医療系社会精神保健学教授)
森 一郎 (東北大学大学院情報科学研究科教授)
清水光恵 (伊丹健康福祉事務所(伊丹保健所)所長、兵庫県精神保健福祉センター医療参事)

◇ 司会 兼 コメンテーター
野家啓一 (東北大学名誉教授・総長特命教授) 
内海 健 (東京藝術大学保健管理センター教授)


 

プログラム

11:00  清水光恵 (発表1)
          「自閉スペクトラム症における『私』」
          ・コメンテーターとの討論

12:00  森 一郎 (発表2)
          「私には見えないのに、あなたには見えるものって何?」
          ・コメンテーターとの討論

13:00  昼食( ~14:00)

14:00  斎藤 環 (発表3)
          「〈対話〉の中の人称」
          ・コメンテーターとの討論

15:00  谷 徹 (発表4)
          「私は思考しうるか?」
          ・コメンテーターとの討論

16:00  休憩( ~16:15)

16:15  全体討論( ~18:00))

 


趣意書
 
  臨床哲学の成立する現場は、病者と医療者の相互の「あいだ」である。この二人が自分を一人称、相手を二人称で意識して「対話」をおこなう。ところがこの対 話は、自己の自己所属性、自分が「だれ」であるかに大きな問題を含む精神科の病者との場合には、当事者の「人称」をめぐってある種の不分明ないし「ゆら ぎ」に曝される。一人称がかならずしも自分のことに、二人称がかならずしも相手のことに対応しない。

  昨年のシンポジウムで提題をお願いした金森修氏は、すでにご自身の死を予知しながら演題「〈遠隔的知識〉としての死」を完結し、本年5月26日に不帰の客 となられた。この遺稿で同氏はジャンケレヴィッチによる一・二・三人称の死の区別を受け入れた上で、これをポパーの三世界理論と照合し、「三人称の死の拡 大解釈」である〈遠隔的知識〉としての死について論じておられる。ご自身の死を三人称的な「知識」として語られたのである。

  ジャンケレヴィッチは哲学者である前に、すぐれたピアニスト・音楽学者として、ドビュッシーやラヴェルの流れをくむ印象派の作曲家に関わっていた。音楽を 作り出す個々の音は、けっして「もの」としての音響ではない。古典派以来、各個の音には機能和声の働きによって出来事としての、「こと」としての性格を与 えられた。ところがこの「こと」的性格が「もの」的性格をいっそう大きく凌駕し、機能和声をすら解体しようとしたのが印象派である。

 「こと」は「ことば」に掬い取られて人間の言語活動に展開される。人は「自ら」が自然のままに生きているという「こと」を言語的に分節し、そこで生きているのが「だれ」なのかを明示することができる。「おのずから」が「自ら」に先行し、「生きる」が「言う」に先行する。

  リクールに『他者としての自己自身』(“Soi-meme comme unautre”, “Oneself as Another”)という著書がある。この書名について著者自身が書いていることによると、「自己自身の〈自身性〉は他性を内奥に含意していて、一方は他 方なしに考えられない。〈として〉commeの語には強い意味を与えたい。つまり他者のような自己自身という類比の意味でなく、他であるかぎりでの自己自 身soi-meme en tant que … autreという意味である。」著者のこの意向は邦訳題名『他者のような自己自身』では裏切られたが、私としてはこれを最大限に尊重したい。「もの」とし ての自己について言われる「同一性」identite と、「こと」として、「だれ」としての自己について言われる「自己自身性」ipseite とは別なのである。

  アイデンティティは三人称的に語りうる。しかし自己が「自分自身」だと言いうるのは、一人称か二人称、ないしは対話の場でこの二つの人称が不可分に絡み 合った局面でしかない。この局面で精神医学上の多くの病理、とりわけ統合失調症や自閉症スペクトラムが場所を得る。臨床哲学を志すわれわれは、この人称的 配分にもっと敏感であってよいのではないか。 ( 木村 敏)


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