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渡辺京二『わたしが選んだこの一冊』

 

渡辺京二

『わたしが選んだこの一冊』

・2010年 『徳政令』笠松宏至 著 岩波新書
・2011年 『共生の生態学』栗原康 著 岩波新書
・2012年 『コーヒーが廻り世界史が廻る』――近代市民社会の黒い血液 臼井隆一郎 著 中公新書
・2013年 『漢字』――生い立ちとその背景―― 白川静 著 岩波新書
・2014年 『アジアの歴史』東西交渉からみた前近代の世界像 松田壽男 著 岩波現代文庫
・2015年 『バベットの晩餐会』イサク・ディーネセン 著  桝田啓介 訳 ちくま文庫
・2020年 『家郷の訓』宮本常一著 岩波文庫
・2021年 『新・木綿以前のこと 苧麻(ちょま)から木綿へ』永原慶二著 中公新書

 


2010年度

『徳政令』
笠松宏至 著 
岩波新書   

 この本は一般的の高校生にはいささか専門的で、この頃多いと伝えられる本嫌いの高校生に奨めるには不適切かもしれない。だから私は、歴史好きを自認する少数の高校生にだけ、そっとこの本の存在を教えたいのである。
 
 1297年に「永仁の徳政令」と呼ばれる法令が、鎌倉幕府から発布されたことは、どの高校教科書にも書いてある。この法令が御家人の所領の質流し、売却を禁じ、過去20年以内に流され売却された分を元の所有者に返還するよう命じたものであること、その背景に御家人の窮状が存在することも、おなじくちゃんと書いてある。書いてあるだけではない。受験生は最低このことを暗記せねばならない。
 
 こんな記述から歴史が好きになる者がいるだろうか。おそらく誰もいまい。近代人の経済観念からすれば、どうしてこんな無茶なことができたのか。そこを書いてこそ歴史は面白いのに、教科書にそんなスペースはない。つまり、歴史というものは、ある程度専門的に突きこんで書かないと面白味が出て来ない。
 
 この本は鎌倉時代はどんな法令が出されたのか、当の幕府も確かには知らず、ましてや一般の人々は法について無知だったこと、にもかかわらずこの徳政令だけは当時有名だったことを述べ、その理由、さらに徳政が受けいれられた理由、またさらには中世の法の独特な性質について、いろんな断片的な事実から、まるで推理小説のように全体像を組み立ててゆく。辛抱してついてゆけば、歴史はこんなに面白いものだったのかと、感嘆すること受け合いである。
 
 筆者は日本中世法制史の第一人者で、私が無条件に尊信する現存日本史研究者はこの人だけであることを付記しておこう。





2011年度

『共生の生態学』
栗原康 著
岩波書店(岩波新書) 

 「自然との共生」という言葉は、いまや口当たりがいいだけの空疎なスローガンになってしまったようです。「共生」が何を意味するのか、どうやって成り立つのか、深く突き詰めて考えることをせず、まるで免罪符のように、あるいは気休めのように安易に使いすぎて来たからでしょう。栗原さんのこの本は生態学の立場から「共生」という現象を掘り下げて考察し、どういう意味で「自然との共生」が、入間の今日的課題となりうるのか'とても明快に説きあかしています。いわゆる環境問題を考える上で、最も基礎的な文献のひとつと言ってよろしいでしょう。

 自然において「共生」とは助け合いのことではないのです。それはむしろ、対立や敵対、食うものと食われるものとの相互作用の結果として生じてくる状態です。つまり多様な生物種が関係のネットワークを形成する中で、相互に適応しあう進化をとげた結果が「共生」となって現れるのです。

 このような相互作用による適応が生んだ「共生」の例として、著者は牛の第一胃(ルーメン)や、ミクロコズム(実験的生物群集)をひいて、丁寧な説明を加えていますが、これだけ独立して読んでも、興味津々の物語です。要するに、多種多様な生物種が構成するネットワーク、すなわち生態系は長い進化の歴史が生んだ精巧なシステムなのです。

 私が感心するのは著者が、われわれ人間が「共生」すべき相手は、個々の生物や生物種ではなくて、このような生態系だと言い切っている点です。著者には、ヒトは人間になることによって、個々の生物や生物種と「共生」することが不可能になったという冷厳な認識があります。むろんこの「共生」とは前述したような生態系的共生のことです。というのは、人間は技術を身につけて、それなしには生きられなくなったからです。

 そこで著者は、生態系と共存する技術として「エコテクノロジー」を提唱するのです。エコテクノロジーとは、工学的テクノロジーと対比しての造語で、工学が対象を単純化し、生物に由来する非決定性を排除しようとするのに対して、エコテクノロジーは複雑な生態系の自己設計能力を引き出そうとするものです。これはとても重要な提言で、具体性に富み啓発的であります。漁業は食物を提供しているだけでなく、陸から海へ流出する物資を陸にもどしているのだという指摘など、目を開かれる思いがします。

 栗原さんは長く東北大の教授をなさった方で、ほかに『有限の生態学』『干潟は生きている』(以上岩波新書)『エコロジーとテクノロジー』(岩波同時代ライブラリー)などの著書があります。いずれも卓抜で深い考察にみちていて、私は大層恩恵を受けたものです。私のような典型的文系人間がそう言うのですから、理系の諸君だけでなく、文系の諸君もどれか一冊読んでほしい。「はまる」こと受け合いと言っておきましょう。


 

2012年度

『コーヒーが廻り世界史が廻る』
   ――近代市民社会の黒い血液
臼井隆一郎 著
中公新書 

  皆さんはコーヒーは飲みますか。むろん、飲むでしょうね。高校で世界史を選択しなかった人も、中学では一応フランス革命だって習いまレたね。われわれが何気なく毎日飲んでいるコーヒーは、フランス革命を初めとする近代をつくりあげる上で、非常に大きな役割を果した不思議な嗜好品です。世界史の廻転に重要な役割を果した国際的商品です。表題の本はコーヒ一が世界中を廻ることで世界史が廻ったという実におもしろい本です。すばらしい着想にみちた本です』

 歴史というのは教科書を読んだって、少しも面白いものではありません。その面白さは具体的な話にならぬと出て来ないのです。諸君はコーヒーの常用がアラビヤ半島ぐらいから始まったんじゃないかと、見当をつけるでしょう。その通りで、イスラム教のスーフィーという神秘主義者の流れが、夜ねむらずに祈りを捧げるために用いたのです。諸君が眠気を払って受験勉強をやるために飲むように。

 ロンドンには1714年には8000のコーヒー・ハウスがありました。むろんコーヒーは飲ませますが、備えつけの新聞など読んでガヤガヤと時事の論評をしたり、商売上の情報を交換するところでした。それが1739年には551軒に減っていました。イギリスは紅茶の国に転換したのです。そのわけはこの本で読んでください。

 パリのカフェに集まった不良文士どもが、コーヒーを飲みながら、マリ・アントワネットの醜聞を、あることないこと書きまくって、大革命をひき起こしたことはご存知ですか。でもそんなことより、この時代のフランスが西インドにコーヒー・プランテーションを開発したことが大事です。もちろん、アフリカから導入した奴隷の労働によって成り立つプランテーションなのはいうまでもありません。

 植民地化した地方を、コーヒーや砂糖という国際的商品のモノカルチャー化してゆくことを最初にやったのはオランダで、その場所はジャワです。以来、西インド、南米、アフリカがそ.ういった国際商品の産地とされ、大地と人間は徹底的に収奪されます。先進諸国の様ざまなコーヒー文化の開花は、そういう影の部分によって支えられたのであって、この本の読みどころは、コーヒーの形をとった世界資本主義の進展を、実に広く深い知識と高い見識で描き出したところにあるでしょう。

 著者は東大を停年退職して、いまは帝京大の先生をしている方です。古今東西にわたるおどろくべき学識の持ち主ですが、一方地口とシャレが大好きで、この本にも吹き出したくなるところが沢山あります。ただし、あまりに知識が広大で、表現も凝っていますので、かなり本気で読まないといけません。しかし、自分には多少難しい本を、半分わからないで読みあげて仲間に自慢するのも、青春の特権です。受験に忙しい今じゃなく、大学へ入ったらまず最先に読んで、知的世界の広大さを実感してください。


 


2013年度

『漢字』――生い立ちとその背景――
白川静 著
岩波新書

 白川静先生が逝かれてもう7年になる。先生がうち樹てられた漢字学=古代中国学が、日本の世界に誇りうる学問的業績のひとつ、というより世界的に見て戦後60年間の最も顕著な文化科学上の発見のひとつであることは、学界における長年の故意の無視にもかかわらず、いまや誰の目にも明らかな事実として確定したと言ってよい。
 
 私は河合塾に学ぶすべての塾生に、白川先生が明らかにした漢字の世界、言い換えれば漢字というユーニークな文字体系のゆたかさを知ってもらいたい。しかし、そのために先生の著作のどれかを紹介するとなると、はたと困惑してしまう。先生は一般向けの本も多数書いておられるが、すべてにおいて妥協することをいさぎよしとしなかった先生らしく、噛みくだいて取っつきやすく語るということを一切なさらなかった。結局、岩波新書の一冊として書かれた『漢字』をすすめるしかないが、これとて、硬質な文体と高度な内容からして、今日の口当たりのよい新書本などと違って、寝そべって読む訳には到底ゆかない。
 
 しかし、本というのはもともと、読んですべてがわかる必要はない。むずかしくても、知的に刺激されれば、何とか読み通すものだ。甲骨文という漢字の最も古い形を分析して、その語義を明らかにしてゆく先生の語りに喰いついてゆけば、まず驚きがやってくる。諸君は「蔑」という字は知っているだろう。この字の上の部分は眼に媚飾を施した巫女を示す。媚女は異族との戦いの先頭に立って敵に呪詛を加える。字の下の部分は戈を表わす。すなわち、「蔑」とは媚女を戈にかけて殺す意なのである。
 
 後漢の許慎は『説文解字』という辞書を編んだ。しかし、その頃漢字の形は変化していて、彼はその原義を知らなかった。だから「告」という字を、牛が口を寄せて何かささやくのだととった。後世の漢字解釈は許慎にならって、ほとんどこういったこじつけに終始している。ところが白川先生は甲骨文によって、この字の上の部分を木の枝と解した。下の部分はサイ(下図)であって口ではない。サイ(下図)とは箱の中にのりとが入った形である。つまりこの字は「神への祝告を木に懸けてかかげる形」なのだ。

 




 大事なのは、こういった漢字の原義の系統的な復元によって、古代人の精神構造と社会組織が浮かび上がって来たことだ。白川先生は漢字を沿海族の所産と考え、古代日本の習俗に通じるところが多いのを指摘された。漢字は単なる記号なのではない。緊密で統一された世界像の表現なのであり、そういうものとして思考の生産を促すものなのだ。
 
 戦後の国語改革は、日本人の漢字運用能力に大打撃を与えた。これがおそるべき結果を惹き起すことを、先生はつとに明察しておられた。日本人は漢字に訓を施すことによって、このゆたかな文字体系を主体的に使いこなして来た。この伝統が喪われることへの先生の怒りと嘆きを、そろそろ私たちも共にすべきなのではなかろうか。

 

 


2014年度

『アジアの歴史』東西交渉からみた前近代の世界像
松田壽男 著
岩波現代文庫

 近代歴史学はむろんヨーロッパで生まれたし、日本の近代史学はそれを移植したものです。ですからいわゆる「世界史」が、西洋近代を人類の到達点として、その成立の系譜をたどる、あるいはこの本の著者によれば、でっちあげる形になったのはやむをえないのかも知れません。
 
 こういう西洋中心史観は今日きびしい批判にさらされていますが、著者は1971年という早い時点で本書『アジアの歴史』を刊行、ランケ・へ一ゲル・マルクス流の「世界史」が、西欧という一元世界を設定し、その基準によって、本来多元的である世界の歴史から、都合のよいものを「つまみぐい」し、都合の悪いものを「切捨て」た結果成立した、色メガネをかけた歴史叙述にすぎないことを痛烈に暴露していたのです。
 
 「前近代の世界史は、アジアを主体とし、地中海を中心にして動いていた」と前置きして、著者は中国(シナ)、インド、地中海、西アジア、中央アジアといった多元的な「アジア」の全体像を描きあげてゆくのですが、その際視軸となっているのは風土です。アジァは北部の亜湿潤アジア、乾燥アジア、湿潤アジアと三区分され、それに適応した農耕生活、海洋生活、遊牧生活、オアシス生活、狩猟生活の五類型が設定されます。これはいわゆる生態の接触・交流が世界史を織りなしてゆくという考え方で、有名な梅棹忠夫さんの生態史観と似ているようですが、梅棹さんのそれがかなり大風呂敷なのに対して、著者の分析はもっと緻密です。
 
 たとえばインドですが、著者は初期はアーリア人、のちにはトルコ系が設立したマウリア朝、グプタ朝、ムガール朝などの北部帝国と、デカン高原に退避した原住民系の諸国と、海岸部の三層構造としてインドをとらえていて、私などこの説明で、15・6世紀にインドに来航したポルトガル勢力が、なぜインド内陸に浸透しえなかったのか、よくわかった気がしました。
 
 著者のアジア中心の世界史構想は、シナ、インド、エジプトなどの農耕文化を、オアシス生活民と遊牧民が通商によって媒介するという形に描かれていて、オアシスと遊牧の意義に重点が置かれており、その叙述はとても魅力的啓発的です、たとえば現イラクにあたる「肥沃な半月弧」は、それ自体が肥沃なのではなく、東アジアと地中海をつなぐ「亜欧通廊」として、富の通り路だったというのです。また地中海がヨーロッパの海ではなく、アジアとアフリカの海だったというのも、目を開かされる指摘です。
 
 この本は今から40年前に出た本ですが、いささかも古びていません。その雄大な構想、新鮮な著想は今もって感動的です。松田さんはあなたたちからすると曽祖父に当る世代ですが、こんなフレッシュな頭脳をもった曽祖父の話が聞けるなんて、幸せではありませんか。しかもこの本には、著者の考案によるすばらしい概念図がついています。
 
 もっともこの本は、十代のあなたたちにはかなり本格的です。でも、わかり易い啓蒙的な本よりも、こういった本格的なものと取り組んだ方が、将来ずっと体力がつくのです。むずかしいところがあれば、無理にわかろうとせずに読みとばせばよいのです。するとしばらくして、ワクワクするような所ときっと出会えます。大学へ入ったらまず読むべき本の一冊としておすすめします。何と言っても、歴史は諸人文学の基礎ですから。



2015年度

『バベットの晩餐会』
イサク・ディーネセン 著  桝田啓介 訳
ちくま文庫 

 今年は小説をひとつ紹介しましょう。何ということはありません。入試準備に明け暮れる毎日に、ちょっとした安らぎの時間を差し上げようというのです。
 
 まず作者のことから書きますと、イサクというと男みたいですが、本名はカレン・ブリクセンといってデンマークの女性なのです。アフリカでコーヒー農園を経営していたのですが、夫とも離婚し農場も破産して、本国へ帰って小説を書くようになりました。代表作『アフリカの日々』は二十世紀文学の傑作のひとつと評価されています。


 『バベットの晩餐会』は1950年にアメリカの婦人雑誌に発表されたものです。1980年代に映画になり、日本でも上映されて評判になりました。すばらしい出来の映画でしたが原作にはひときわ深い味わいがあります。
 
 1885年のこと、ノルウェイの小さな町に二人の老姉妹が住んでいました。父はカリスマ性のある牧師で、ひとつの宗派を開いたほどの人物でしたが、その死後は姉妹が信者たちと父の教えを守って、細々と信仰生活を続けているのです。ですが、信者たちの中には不和も生じますし、とても父が生きていたころのようには行かないのでした。
 
 姉妹には実は若いころロマンスもあったのです。姉に思いをかけたのは若い騎兵将校でしたし、妹の方を愛したのはパリの名歌手とうたわれるフランス人でした。妹には彼が惚れこむ歌唱の才があったのです。しかし姉も妹も一番大切に思うのは父とその信仰でしたし、二人の求愛者は空しく退くほかありませんでした。
 
 ところが1871年、バペットというパリの女が、例のフランス人歌手の紹介状を持って姉妹を尋ねて来ました。パリ・コミューンの反乱者一味でパリに居られなくなったので、下女として傭ってもらえないか、彼女は料理ができますというのです。こうしてバベットは姉妹の家で暮すことになったのですが、一家の食事は瞬く間に改善され、しかも経費は安上がり、姉妹は大いに助かりました。しかし彼女は一言も自分の過去を語りませんでした。
 
 さてそれから14年、つまり1885年のこと、バベットはパリの友達に頼んで買っていた富くじが当たった、額は一万フラン、12月15日の故牧師の生誕百年記念日に、その金で晩餐会を開きたい、メンバーは12名だと申し出ました。了承されると彼女はパリまで食材を買いこみに出かけました。
 
 さてその夜のディナー。出て来る一品一品に年老いた信者たちの頬は緩み、仲違いしていた者も互いに悪かったと謝り合います。しかし、料理の真価がわかったのはかっての騎兵将校、いまは将軍となっている老人だけでした。彼はワインも含め、パリ最高のレストランの味が再現されているのに一驚しました。
 
 目出たく晩餐会が終ると、姉妹は金持ちになったバベットがパリへ帰るのではと心配になりました。あのお金は使ってしまいました、カフェ・アングレではディナー12人分で1万フランでしたというのが彼女の答でした。彼女はそこのシェフだったのです。
 
 このお話の勘どころがわかるには、パリ・コミューンの知識が必要です。それはまた別に勉強して下さい。また粗筋がわかったから読まないなんて言わないで下さい。この小説を読めば、人生とは何と奇妙で深い淵を湛えたものか、お感じになるでしょう。そして、心の底から歓びが溢れることでしょう。

 

 

2020年度

『家郷の訓』
宮本常一著
岩波文庫

 宮本常一という人は、柳田國男の開いた日本民俗学の学徒として、日本国中を旅して各地の貴重な慣習を書き残した人です。1907年に生れ、1982年になくなりました。

 『家郷の訓』は昭和18年(1943年)、すなわち太平洋戦争のまっただなかに書かれましたが、戦争中の好戦的狂信的な雰囲気は微塵もありません。瀬戸内の大島で育った自分の経験を顧みて、昔の子どもの育てられかた、祖父母・両親・子どものありかた、さらに一家の村の中でのありかたを、極めて具体的に語って、かえって国運を賭すような大戦争に突入した日本の近代の反省を促すような趣きさえあります。

 この本を読むと、昔の村の生活がよくわかります。昔といっても、宮本さんが育ったのは日露戦争後のことなのですが、まだその頃までは、江戸時代に基本が出来上がった農村慣習の余風が濃厚に残っていて、宮本さんはそれを記録しているのです。

 親が子に伝えようとした「家郷の訓」とは、次のような村人のありかたに基づいているのでした。「本来幸福とは単に産を成し名を成すことではなかった。祖先の祭祀をあつくし、祖先の意志を帯し、村人一同が同様の生活と感情に生きて、孤独を感じないことである。われわれの周囲には生活と感情とを一にする多くの仲間がいるということの自覚は、その者をしてより心安からしめたのである。そして喜びを分ち、楽しみを共にする大勢のあることによって、その生活感情は豊かになった」。

 しかしこの本の面白さは、村の慣習の機微を極めて具体的に語っているところにあります。例えば、村では「娘は年頃になるとたいてい家を逃げ出す。そして町の方へ奉公に行くのである」。

 この場合、親の許しを得ることはほとんどない。あらかじめ気づかれぬように、荷物をまとめて外へ持ち出しておいて、折を見てフラリと家を出るのである。さて夕方になって娘の姿が見えないので騒ぎとなる。親戚や近所の人々に頼んで、四方を探し廻る。見つからないと、これは家出ときまって、父親は烈火のごとく怒り、中には寝こむ者もいる。しかし、見かけは大騒ぎしながら、母親は事前に知っていた。なぜなら、彼女自身そういう風にして他所に奉公に出た経験の持ち主だったからである。

 いちいち紹介していたら切りがないけれど、とにかくむかしの子どもの育ちようが、これほど手に取るようにわかる本はありません。子どもが間違ったことをすると、親のみならず村人の誰でもたしなめ叱った。「しかるにいつか他家の子を叱れば、その親がかえって怒るように変ってきた。子供を叱ることの許されているのは学校の先生と巡査と親だけになってきた」とあるのを読むと、昭和18年にすでにそうだったのかと、感にうたれます。これがいわゆる「近代化」だったのです。

 あなた方がこの本を読まれますと、遠い遠い幻を見るような心地になるかも知れません。何もかもあまりに違いすぎるのです。しかしその違いをわからせるのがこの本の値打ちなのです。昔のことを懐かしむのは退嬰的だというのは間違っています。過去は一種の異文化であって、それと接触することで、私たちは当然と思いこんでいる現代の文化を相対化することができます。宮本さんが描き出す「家郷の訓」はどれほど感動的であっても、そのまま採用できるものではないでしょう。しかし、私たちが今日当り前としていることを疑う助けになるかも知れないのです。

 

2021年度

『新・木綿以前のこと 苧麻(ちょま)から木綿へ』
永原慶二著 
中公新書


柳田国男は大正13年に、『木綿以前のこと』という有名な文章を書きました。従来の麻布に比し肌ざわりが柔らかく、どんな色にも染まる。木綿の着用によて人びとの姿は美しくなり、心も濃(こま)やかになったというのです。

筆者永原さんは有名な中世史家ですが、『苧麻から木綿へ』という内容の本を書いたところ、編集者からすすめられて,柳田さんのこの有名な本のタイトルを借りることにしたのだそうです。

木綿が朝鮮・中国から輸入され、わが国でも栽培されるようになったのは、16世紀あたりからだそうで、それ以前日本人は様々な植物繊維から着物を作っていた訳ですが、中でも主力は苧麻(ちょま)でありました。苧麻は麻の一種です。
ところが、苧麻から一反の織物を作り上げるには、大変な手間が要ったのです。まず刈り取ったらすぐ束にして水に2、3時間漬ける。そして皮と殻を分離する。これからが皮から繊維をとり出す「青苧作り」になる。これが熟練を要し手間がかかる作業で、それも刈り取った現場で行わねばならなかった。
青苧は中間商品として出荷され、それぞれの農家で女性がこれから糸を「績(う)む」ことになる。これも高度な熟練と忍耐が要る仕事で、一反分の糸を作るのに40~100日の日数がかかったのです。

さて今度は織ることになるが、イザリ機という原始的な織機で、一日中食事以外立たずに織り続けても、一反織るのにまずは40日かかった。とすれぼ一家が必要とする麻布を織るだけに、女たちは専念せねばならなかったのです。そうして出来上がった麻の着物はゴワゴワして保温性がなく、冬には三枚も四枚も重ね着せねばならないのだった。

これに対し綿の場合、綿摘みから紡績・織布にいたる必要労働時間は、麻の十分の一ですんだ。すなわち女性は、田畑において夫とともに働くことができるようになった。木綿は肌ざわりがよく、保温性が高いだけではない。麻が染色しにくいのに対して、木綿の染色が容易だったのは、働く人びとの姿を華やかならしめたのです。
しかも重要なのは、木綿の生産が次々と関連産業を発達させて行ったことです。藍の生産が盛んになったのも、木綿の染色のためですし、干鰯(ほしか)の生産が増大したのも、綿畑の肥料としてです。永原さんは言います。「木綿の導入が日本の社会・経済の全体にもたらしたインパクトとしては、連鎖的に商品経済を発展させ、経済社会の在り方そのものを大きく構造的に転換させたことこそ、決定的に重要だと考えられるのである」。

歴史は、受験勉強で年代を覚えねばならぬような事件だけで、成り立っているのではありません。もちろん胸躍らせるような出来事に満ちた事件史も、それなりに面白いものでありますが、その時代を生きた人々の実相は、もっと地味で平凡な生活のあり様の中に表われます。そういう生活上の歴史を担う社会史は、1980年代以降盛行して、今日に至っていますが、1990年に出た永原さんのこの本も、代るもののない名著として、読み続けられて行くことでしょう。