10.「海みたいな人」
【モンゴル】
モンゴルの人はゲルというところに住んでいます。
家畜を飼い、彼らが食べているのはほんとうに肉だけ。
冬は肉、夏は乳製品です。
子馬に乳を飲ませた後で、男が子馬を捕まえ、女が搾乳する。
この乳を発酵させて馬乳酒を作る。
6~10月の間、およそ2時間おきに搾乳する。
ゲルに、中国ではパオといってるテントなんですが、
一度はそこに暮らしたいと思って探しましたが、なかなか見つからない。
そんな時この少女と出会いました。
この女の子はこの時7才でしたが、
プージェという名前で、最初会った時はすごくカッコ良かった。
自分ひとりで馬に跨って牛を何頭も追いかけていました。
非常にカッコ良かったので写真を撮ろうと思い、
ふつうは友達になるまでは僕は写真を撮らないんですが、
すごくカッコ良かったんで、
すぐに写真が撮りたくなって、前に廻って写真を撮ろうとしたんです。
夕方、牛の世話を任されたプージェが馬に乗って牛を追う。
彼女の仕事をジャマしたことになるんですね、進路妨害。怒鳴られたんです。
ジャマだ、どけ、何するんだ、という感じで怒鳴られて。
仕事のじゃまするんじゃない、あっちへ行きなさいと、言われた。
あとから追いかけて行って、ごめんねと言ったんだけど許してくれなかった。
ずーっと許してくれなくて、彼女の家に行ってみたら、
ふつうの状態じゃなかった。
というのは、まずおじいちゃんが寝たきりになっている、脳卒中で。
おばあちゃんがいてミルクティーを出してくれたんだけど、お母さんがいない。
1ヶ月前に出たきり帰ってこない。
30頭以上の馬がいなくなったので探しに行っているという。
お父さんはと聞いたら、ウランバートルに行ったまま帰ってこない。
いわゆる蒸発しちゃった。
遊牧社会というのは男性社会なんです。
男手が必要なんですが、この家族はおばあちゃんと、
お母さんが帰って来ればお母さんと、この女の子と従弟、2才の男の子。
そういう男優位の社会の中で、女だけでどうやって生きているのか見たいので、
ここにちょっと居させてもらおうと思いましたが、
最初は非常に冷たくて、なついてくれない。
たまたま雪が降ったので雪だるまを作って、
目を入れない?、片目だけ入れて、
プージェにこっちの目入れてみない? と言ったら、
何かもじもじしている。
バーサという従弟を送り出して、お前やってこいと言って、
この子が目を入れたら、自分もやりたくなって鼻を入れて、
そこから打ち解けるようになったんです。
ゲルの前でプージェとパーサ(2歳)
お母さんがいなくなって、
雪が降ってきたから牛を守るために小屋を作らなければいけない、
だんだん寒くなってくる。
2回目に行った時は、家畜の世話も炊事もやるし、
とにかくお母さんの代わりに頑張らなければいけないということで
一生懸命やっている。
二歳の従弟はぜんぜん何の役にも立たないから、
とにかくこの子が全部ひとりで仕切らなければいけない。そういう子でした。
そこに、お母さんが帰って来た。
お母さんは着の身、着のままで帰って来た。
何も持っていない。馬は見つからなかったんです。
それより何よりも驚いたのは、何も持ってないということ。
それはどういうことかというと、
要するに1ヶ月、草原を、私が旅をするとしたら、
食糧とか寝袋とかテントとか、ものすごい荷物になる。
ところが彼女は何も持たないで旅をしてきた。
ということは、やっぱり遊牧社会なんですね。
誰かが旅をするとしたら、それを手伝う、食べさせてくれる、泊めてくれる。
そういうネットワークがちゃんとできているということなんです。
それに、彼女はアテもなく行きましたが、
そういう情報のネットワークというのも凄い。
馬がどこへ行ったんだろうという情報のネットワークを頼りに探し求めましたが、
そういうふうな社会が遊牧社会なんですね。
その時のプージェの態度がふつうにおもしろかった。
すごく、しゃんとした女の子、
ひとりで切り盛りして、おばあちゃんの手伝いをして、
一家をコントロールしていたのに、
お母さんが帰ってきたら、いきなりふつうの女の子になっちゃっていて、
恥ずかし~いという感じで陰に隠れてしまって、
ふつうの女の子になってしまう。その対比が、あまりにも違うのでびっくりしましたね。
お母さんが凄い人というか、まだ三十歳ちょっとですが、
こっちが世話になったのに、別れる時に馬をもらって下さいと言う。
非常に聡明な人で、
私がどんな旅をしてるのか、南米からやって来た、そしてアフリカに向かうということが
解ってくれていて、
馬を盗られたばかりで必要なんじゃないですかと言ったら、
イヤあなたはこれから長い旅を続ける、
あなたは馬が必要だから持っていきなさいと言う。
ゲルの前で記念撮影。草原で出会った6歳の少女プージェと家族。
ああこれが遊牧民なんだなと思ったんです。
なんていうか、
僕は「海みたいな人」って漠然としたいい方をするんですが。
ただ、今はちょっと必要ないので、預かっていて下さいと言ったら、
「じゃあウチで預かっておくわ」と。
お返しに、プージェに何かお土産、
今度日本から来るときに持ってきてあげるから「何が欲しい」と言ったら、
「コンピューターが欲しい」と言うので、
「えっコンピューターをどうするの?」と聞いたら、
結局ゲームだったんですね。
なぜかというと、街のデパートの1階には必ずゲーム器がある。
それから街の子で、ちっちゃなテトリスという簡単なゲームを持っている子がいる。
だから、それが欲しかったというので、ウランバートルで買って後で渡しました。
それから、お母さんが手紙を書きたいから住所を教えてくれと言うんです。
でも、住所不定の遊牧民が手紙なんかくれるはずがない、
社交辞令だろうと思って、いちおう住所を置いてきたんですね。
すると、シベリアから年末に帰って来たら、
ちゃんと手紙が、年賀状が来ていたんです。
その年賀状の中に「みんなでいつもあなたのことを話しています。
プージェも元気だし、あなたの馬もちゃんと元気でいます。
早く、乗りに春に帰ってきて下さい」という年賀状があって、
最後にあなたはモンゴル語がわからないから読めないでしょうから、
誰かモンゴル語が解る人に読んでもらって下さいと書いてある。
モンゴル語のわかる人に読んで訳してもらいました。
ゲルの前で記念撮影。
記念撮影。撮影はプージェ。
ところが、春にそこに帰ったら、お母さん、亡くなっていたんです。
お正月、旧正月なんですが、街に出て帰る時、曳いていた馬が足を滑らせ、
乗ってる馬はどんどん行ってしまうから、引っ張られ、
落馬してその馬に踏みつけられた。
帰って来た時はなんでもなく、ふつうに仕事をしていたらしいんですが、
そのうちにだんだん気持ちが悪くなってきて動けなくなった。
それで、急いで街の病院へ連れていきましたが、
やっぱり、社会主義時代は誰でも平等に医療の恩恵を受けられましたが、
民主化になるとやっぱり金がないと受けられない。
病院に行ってもすぐには受け入れてくれないので、
いろんなところまわっているうちに悪くなって亡くなってしまった。
落馬した時、肝臓とか脾臓か、あるいは腸管膜かもしれませんが、
細い動脈が切れると、ふつうすぐには容態は悪くならない。
でも止まらない。だから徐々に徐々に悪くなっていく。
日本にいたら、日本にいなくてもちゃんと手術すれば簡単に、
ほんとにちょっと止血すれば済んで、助かったはずなのに。
そういう医療の体系の悪さのために亡くなってしまった。
プージェも落胆してずーっと泣いていたというんです。
アマゾンの家族と同様、一生つき合いたかった家族だったので、非常に残念でした。
草原の少女プージェ 映画 プージェ
【ラクダ】
ゴビ砂漠はラクダに乗って旅をしました。
砂漠といってもゴビというところは傾斜や山岳地帯もある複雑なところでしたし、
3月だったのでまだ雪が残っていましたが、
そこを1ヶ月かけて行きました。
二瘤ラクダというのは非常に乗りやすい。
我慢強い、力強い、でも気性が荒くて、機嫌が悪いとすぐゲロを吐きかける。
胃が4つあって、最初の胃は食道が変形したものですが、
食べては口に戻して、もう一回咬んで反芻してるわけです。
気にくわないことがあるとぺっと吐くんです。
水をすごく怖がるので、1頭目が川を渡るのがたいへんなんですが、
1日40~50キロは走るし、何週間も食べたり飲んだりしなくてもいい。
それから何でも食べる。
棘のある灌木、それをバリバリ食ってしまう。
一度真似をしましたが、口の中を怪我をしただけでおいしくもない。
恐いのは砂嵐です。
旅をした春というのは砂嵐の時期で、
ほんとうは止めようと思ったし、一番避けなければいけない時期なんです。
仲間に「砂嵐の時はやるべきじゃないよな」と言ったら、
仲間にバカにされたというか、
もともとあんたがやってることはムダなことなんだから、
ムダなことをやるのは、別にあんたの主義にそぐわないことじゃないんじゃないの?と言われてしまいました。
グレートジャーニーというのはそういう意味では無駄なことをしているに違いありませんね。
砂嵐が来ると、
彼らはまつげが長いとか鼻毛が長いとか、やっぱり砂に対応しているんです。
砂に対応できてない人間はラクダの陰に隠れている。
ゴーグルをちゃんとしていないと目がやられるし、
ここでカメラが3台やられた。
砂だけならまだしも、風が強いから、レンズのフィルターにポコポコ穴が開いて、
それからスチールカメラ2台も壊れていまい、
あとでカメラ会社に持っていきましたが修理不能といわれてしまった。
それからビデオが1台。ただ待っていれば、収まるので別にどうということはないですけどね。
学校の近くに住む生徒は、歩いて通学するが、
2~3㌔以上離れたゲルに住む生徒は、ラクダに乗って通っている。
ラクダの歩くスピードは結構早い。
4㌔離れたところから通学してくる生徒も15分で学校に着く。
シルクロードは12月。
ちょっと甘く見て軽い服装をして行ってしまいました。
マイナス6度だと聞いたので、じゃあ大したことない、
これはきっと最低6度なんだなと思って行ったら、
最低は15度から20度でしたので、ちょっと毛皮が欲しいくらいでしたね。
スタートは2000年12月8日。道路はすっかり雪で埋まっていた。
その時はヒマラヤからの帰りでしたが、
ふつうの軽登山靴を穿いて行っちゃった。
そしたら足が冷たくてしょうがない。
なおかつ車が通れないほど雪が降ってて、ほとんど押して歩きました。
真冬の中国領シルクロード。自転車を押して進む。
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