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ドストエフスキイ研究会〈 主宰:芦川進一 〉

ドストエフスキイ研究会

〈 主宰:芦川進一 〉

 日本の若者がドストエフスキイ世界に親しみ、そこから原理的な思索を試みることは今では殆ど皆無となりました。しかし現実を嘆くよりも、新しいドストエフスキイの時代を準備すべく、当研究会はドストエフスキイのテキストにひたすら向かい、彼が土台としたキリスト教を理解するために聖書テキストも並行して読み進めています。1987年の開始以来、河合塾出身の若者1000人以上が、それぞれの感受性でドストエフスキイと聖書世界を受けとめ、社会に旅立ちました。将来はこの延長線上に、ドストエフスキイ理解を広く人間と世界と歴史の理解へと繋げる学問の場として、単科的な「塾大学」の立ち上げも視野に入れています。
 研究成果としては、単行本で『隕ちた「苦艾」の星─ドストエフスキイと福澤諭吉─』(1997)、『「罪と罰」における復活─ドストエフスキイと聖書─』(2007)を河合文化教育研究所から、『ゴルゴタへの道─ドストエフスキイと十人の日本人─』(2011)を新教出版社から刊行し、今年は『カラマーゾフの兄弟論』を河合文化教育研究所から発行しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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◆◇ ドストエフスキイ研究会便り ◇◆

                
ドストエフスキイ研究会  (主宰者)芦川進一





◇はじめに◇


1.河合文化教育研究所について

河合文化教育研究所が設立されたのは、バブル経済が最盛期を迎えた千九百八十年代の半ばでした。この研究所設立の出発点となったのは、物質的経済的繁栄のみを追う日本社会を向こうに、予備校「教育」の現場から初めて可能となる「文化」もあるのではないか、それを産み出そうという理想でした。

この理想を実現すべく、研究所に関わる全員が土台としたのは予備校という教育空間の独自性であり、そこから自らに課したのは、浪人という極めて不安定な状況に置かれた若者たちに、受験勉強に真剣に取り組ませるという、まずは予備校として当然の課題でした。これに加えて課されたのは、彼らの揺れ動く鋭敏な感性と知性に対し、この時期にこそ世界の一級の知的巨人たちと、彼らが格闘した問題との対峙を迫るという課題でした。これら二本の柱によって、二十歳前後の若者たちに人生を貫く知的探究への基本的意欲と姿勢とを身に着けさせよう、その上で彼らを大学に送り出そう、このような「教育」への課題と理想を追求することから予備校独自の「文化」を生み出す土壌も育まれるはずだ、このような展望の内に文化教育研究所が生まれたのでした。今思い起こしても、それは地に足の着いた「文化」への展望であり理想、そして「教育」への姿勢であったと思われます。

当然のことですが、それと同時にこの文化教育研究所に集った全員が、予備校「教育」の現場でする努力と表裏一体の形で、各自それぞれの専門分野に於いて「文化」に向けた地道で誤魔化しのない努力を自らに課したのでした。若者たちとの対決と、世界の一級の先哲・知性が直面した問題との対決、そして自分自身との対決。少々青臭い表現が続きますが、これら三層にわたる緊張感こそが、歩み始めた研究所の事務局員と研究員とを支え衝き動かす目に見えない力であり絆であったと私は理解しています。

 

2.ドストエフスキイ研究会について

ドストエフスキイ研究会もまた、河合文化教育研究所の東京地区に属する一研究会として、上のような雰囲気の中に出発しました。以来30年近く、河合塾で受験生活を送り大学進学を果たした若者たちが再び河合塾に戻り、自由にこの研究会に参加し、ドストエフスキイと聖書テキストの講読と思索を続け、そして社会に巣立ってゆきました。ここで学んだ若者たちは1000人を超え、最初期の参加者たちは既に50歳を迎えようとしています。研究会の活動形態や取り上げる内容も様々な試行錯誤を続ける中で変化し、幾多の問題を孕みつつも、それなりの個性ある歴史を刻んで来たように思います。

現在の活動は、従来のように多数のメンバーが集まった研究会の形式を卒業し、社会に出た後自らが直面する現実の中で、改めてドストエフスキイを学びたいとの強い問題意識を持つに至った人たち、そこから再び自らこの研究会の門を叩いて来た人たちを受け容れ、主宰者芦川が彼らとの間で二~三人単位での個別的研究会を持つという形を取るようになっています。これも長い時間の中から自然に生まれ出た形式として、新しい「寺子屋」的な学びの場の創出を念頭に、暫くはこの試みを続けてみようと思っています。

芦川自身のドストエフスキイとの取り組みは、河合塾での授業と、研究所での若者たちとの研究会と並行して続けられて来ましたが、漸くこの夏、若い頃からの課題であったカラマーゾフ論が完成するに至りました。この間に研究会の場で私が学んだ最大の教訓の一つとは、若者たちと接するにあたっては、彼らと共に「問い」の前に立つことを止めて「教え」の立場に立つ時、既にドストエフスキイを学ぶことは生命を失うということでした。教える立場にある者が、むしろ様々な点で教えられることの多かった30年だったと痛感しています。活きて動くドストエフスキイ世界の広大さと奥深さを前に、常に謙虚に「問い」の前に立つこと、これがそのまま冒頭に記した、河合文化教育研究所が設立された当初の理想を保ち伝える姿勢であると改めて思い知らされています。

 

3.「ドストエフスキイ研究会便り」について

ドストエフスキイ研究に一つの区切りがついた今私は、ドストエフスキイ研究会30年の活動についてもここで一度正面から振り返り、後に続く人たちのための参考となり「叩き台」となるような記録を残しておく時ではないかと思うに至りました。

これから何年かにわたり、それらを「ドストエフスキイ研究会便り」として形にしようと心に期しているのですが、この「便り」が向かう所は、決してただ単に「昔懐かし」的な回顧にしたくはありません。私の視野の内にまずあるのは、五年後に控えた東京オリンピックの翌2021年、ドストエフスキイ生誕200年です。その時にも恐らくマスコミ・ジャーナリズムに乗った安易なドストエフスキイ論が多く世に流されることでしょう。この「研究会便り」はそれとは無関係に、将来ドストエフスキイと正面から取り組む人たちにとっての、厳しくも手応えのある「叩き台」を提供することを第一の目標とするものであり、その為にはこの30年間に研究会でなされて来た、様々な試行と思考の「錯語」をこそ報告すべきだと思っています。

具体的に「研究会便り」で記そうと思うこととは、この30年間ドストエフスキイ研究会においてどのような作業が続けられ、メンバーの間でどのような対話がなされ、どのような問題が浮かび出て来たのか、そして今なお答の出ないままに検討され続けているのか。またそれらが日本や世界のドストエフスキイ研究の中でどのような位置を占めるのか。更にはドストエフスキイを介する時、人間とは、世界とは、そして歴史とは如何なるものとして見えて来るのか、これらのことを「解答」のないままに、飽く迄も「問題提起」の形で報告したいと願っています。

 


    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ドストエフスキイ研究会便り・(1)

 

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ドストエフスキイ研究会便り・(2) 
→ ドストエフスキイ研究会便り2.pdf
*7月11日、ドストエフスキイ研究会便りを更新しました。
 pdf  を開けてご覧ください。

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ドストエフスキイ研究会便り・(1)

「はじめに」で記した事と重なることもありますが、今回は「ドストエフスキイ研究会便り」・(1)として、まずは以下の[1]-[8]に於いて当研究会の大きな流れを報告し、そこに含まれた問題と芦川が今まで発表してきた著作との対応を記し、これからの「研究会便り」への土台作りと方向づけをしておきたいと思います。一回目ゆえに、舌足らずな説明も少なくありませんが、それらはこれから改めて取り上げ説明してゆく予定です。今回は取り敢えず、以下の[6]と[7]をメインテーマとしてお受け取り下さい。

[1]明治以来日本社会は西洋文明の導入に当たり、「和魂洋才」の名の下に、その基盤をなすキリスト教との取り組みを怠ったまま今に至ったことは周知の事実と言えるでしょう。この問題は文学・思想・芸術を始めとする文化の領域においても同じであり、殊に聖書に深い根を置くドストエフスキイ文学の理解の上では致命的な欠陥となってしまったように思われます。このような流れを向こうに置き、当研究会はドストエフスキイ文学が展開する人間と世界と歴史へのアプローチを、そのキリスト教思想に焦点を絞ることから試みて来ました。ここに当研究会の最大の特色もあるのかと思います。

研究会成立の背景と土台については、後日の「研究会便り」でも論じる予定ですが、取り敢えずは以下[5]の3(『ゴルゴタへの道』)の第二部第一章、また[7](「アリョーシャとイワンの聖書 ―モスクワ時代、イエス像構成の一断面―」)の第二部で大きな流れは理解していただけると思います。またこの方向でのドストエフスキイとの取り組みの結果が、[5]の2(『「罪と罰」における復活』)と4(『カラマーゾフの兄弟論』)として、共に河合教育文化研究所から出版されています(後者は来年出版の予定です)。

[2]上の[1]との関係で、ドストエフスキイ研究会が取った唯一の方法論は、まずはドストエフスキイの作品そのものを丁寧に読み込むこと、それと並行して聖書テキストをコツコツと読むこと、これら二つの作業をひたすら自らに課すというものでした。前者の場合、具体的にはドストエフスキイが初めて西欧社会に触れ、その報告をした『夏象冬記』(1863)(以下の[4]を参照)と、後期五大作品の第一番目である『罪と罰』(1866)、更に絶筆となった『カラマーゾフの兄弟』(1880)を主な対象とし、後者は『ルカ福音書』や『ヨハネ黙示録』やパウロ書簡、旧約諸書等を中心に講読して来ました。
芦川自身も含めて、日本人がキリスト教と聖書に触れた時にまず示して来た反応とは、本能的とも言えるほどの強い拒否反応であり、対象を落ち着いて理性的に理解しようとする姿勢からは程遠いものであったと言えるでしょう。ドストエフスキイ文学への熱烈な傾倒と関心。その一方でドストエフスキイ文学が中心に置く聖書的磁場の無視。ドストエフスキイに対するこれら相反する二つの姿勢が、我々日本人の多くが示して来た反応と言えると思いますが、今までドストエフスキイ研究会に集った1000人余りの若者たちもまた、それぞれが実にナイーブかつプリミティブにこの拒否反応を表現し続けて来たのでした。彼らがこの強い拒否反応をどう克服し、やがて如何に冷静に落ち着いてドストエフスキイと聖書とに取り組むようになったかについて、これは私が一度正面から取り上げて論じなければならないテーマであり、「研究会便り」でも取り上げるべきものと思っています。

我々日本人がキリスト教と聖書に対して示す本能的とも言える拒否反応の問題については、取り敢えず[5]の1(『隕(お)ちた「 苦艾(にがよもぎ)」の星』)の中の一部ですが、ドストエフスキイ研究会の場で若い人たちが示した反応を、福沢諭吉の西欧体験と重ねて扱っています。河合文化教育研究所から出版された『河合おんぱろす』・1号でも、この問題の身近な例に触れられるでしょう。

[3]以上の作業と並行して研究会が常に注意を払い続けて来たテーマは、ドストエフスキイと聖書と日本文化との関係についてです。例えば芭蕉や福沢諭吉・夏目漱石・太宰治・遠藤周作・小林秀雄等の日本文学・評論、また親鸞・道元・西田幾多郎等の宗教・思想等、これらの多くが難解なものばかりですが、敢えて若い人たちにこれらと取り組むよう励まし、更にはこれらをドストエフスキイ文学と比較する作業を進めて来ました。

これら比較文学・比較文化の作業については、上の[5]の1と共に、[5]の3(『ゴルゴタへの道―ドストエフスキイと十人の日本人―』)の特に第一部と第二部がその報告となっています。ここでは太平洋戦争の末期に書かれた西田哲学最後の「第七論文集」の末尾が、キリスト教とのまたドストエフスキイのカラマーゾフとの対決であることを、これとほゞ同時期に書かれた小林秀雄や小出次雄のドストエフスキイと聖書との対決と対照させ、日本の終末論的時代状況の中から生まれた渾身の思索として論じています。
 
またベートーヴェンやバッハなどのクラッシック音楽、ダ・ヴィンチやフェルメールやゴッホなどの西洋絵画、倪雲林や徽宗皇帝や梁階などの中国絵画との取り組みも積極的に進めて来ました。これらの作業の根はすべて、小出次雄と小出が伝えるその師西田幾多郎の教育への姿勢にあり、当研究会も非力ですがその精神を受け継ごうと努めて来ました。この作業を積み重ねることは時間のかかる厳しいものですが、芸術的・宗教的感性と思索力の涵養のためにも、またドストエフスキイと聖書世界のより深い理解のためにも必須の基礎訓練であり、専門化の進んだ現代に於いて失われてしまった全人間的な教育を再構築する試みとしても不可欠なものと考えられます。

この問題については[7]に於いて一部言及していますが、ドストエフスキイと聖書テキストとの取り組みの陰に隠れ、あまり表面には出されなかったものです。これからは「研究会便り」の中に積極的に織り込み、機会のある毎に紹介してゆきたいと思っています。

[4]ところで当研究会の作業の中で、特に前半の大きな特色の一つとして挙げられるのは、『夏象冬記』(1863)に約20年間焦点を絞り続け、この作品をドストエフスキイ世界への導入に当たり、新メンバーに必読のものとして課したことだと思います。
この作品は独特の語り口で読み難く、ドストエフスキイの愛読者でも紐解くことの少ない作品ですが、特に注目すべきはその第五章と第六章で、1862年、世界の最先端を切って近代文明を押し進める二つの大都会ロンドンとパリを訪れたドストエフスキイが、実はそこに展開するものが過酷で空虚な人間疎外・神疎外の世界でしかないことを見抜き、聖書的磁場の表現を駆使して痛烈な批判を展開したもので、ヨハネ福音書の「ラザロの復活」の登場を始めとして、後のドストエフスキイ世界が爆発的に現われ出る原始星雲のような位置を占めるものと言えるでしょう。
更に興味深いことに、ドストエフスキイ世界にも聖書世界にも馴染のなかった多くの若者たちが、ドストエフスキイが提示するこのロンドン論とパリ論から入ると、人間と世界と歴史が抱える問題について自分自身の問題として強く興味を掻き立てられるという事実、またドストエフスキイ特有の聖書的思考をも抵抗なく受け止め、ものを考える手掛かりとしてゆくという事実です。『夏象冬記』という作品は、今後の日本のドストエフスキイ研究や教育への、そして聖書的磁場での思考への、一つの大きな入り口となる可能性を持つことを教えられました。このことはロンドンやパリから始まった近代化の流れが、その後ベルリンやニューヨークから東京を経て、更に北京や上海、そしてインドや中近東を経て世界を一巡するまで、その内に抱える正と負の問題がドストエフスキイの抉り出したままに存続し続けるということを意味するのでしょう。

この『夏象冬記』講読の作業を、ドストエフスキイ研究会から外に出て、更に河合塾の東京地区全体の場に開いて8回にわたり展開したのが、河合文化教育研究所主催の「エンリッチ講座」―『夏象冬記』を読む―です。この連続講座が実施されたのは1989年のことで、この年ソビエト連邦の崩壊からベルリンの壁の撤去、更には天安門事件と続く世界の激動を向こうに、予備校空間で多くの若者たちがドストエフスキイを熱烈に読み進めたのでした。このエンリッチ連続講座の開始に当たっては、激変する世界情勢の中で、是非ドストエフスキイを生徒さんたちにぶつけて欲しいと、研究所の事務局関係の方たちからの強い勧めがあったことも記しておきたいと思います。

この8回の記録の中から、ドストエフスキイと全く同年、1862年に西欧世界を旅した福沢諭吉の『西航記』と重ね、比較文学・比較文化的視点から考察したものが『隕(お)ちた「 苦艾(にがよもぎ)」の星―ドストエフスキイと福沢諭吉―』で、これは河合教育研究所から出版されています([4]の1)。その他河合文化教育究所発行の『河合おんぱろす』第1・2号にも、連続講義を終えて参加者たちが討論をした記録など、興味深い関連テーマが掲載されています。
 
[5]その後の芦川のドストエフスキイ研究も、この『夏象冬記』を土台とし、またその延長線上に続けられ、近刊の『カラマーゾフの兄弟』論に至ります。以下に改めてそれら四冊をまとめて記しておきます。

1.『隕(お)ちた「 苦艾(にがよもぎ)」の星―ドストエフスキイと福沢諭吉―』(河合文化教育研究所、1997)、
2.『「罪と罰」における復活―ドストエフスキイと聖書―』(河合文化教育研究所、2007)
3.『ゴルゴタへの道―ドストエフスキイと十人の日本人―』(新教出版社、2011)
4.『カラマーゾフの兄弟論―砕かれし魂の記録―』(河合文化教育研究所、2016予定)
 
[6]これからの「ドストエフスキイ研究会便り」は、以上のような流れを踏まえて、また以上に記したことの中から、毎回具体的なテーマに絞って記してゆきたいと思いますが、今回の第一回目は上の[1]と[2]と対応する形で、昨年2014年の暮れに早稲田大学ロシア文学会の主催(早稲田大学ロシア研究所・日本ロシア文学会共催)の下になされた講演の記録を紹介したいと思います(次の[7]も参照)。
 この会の主催者である早稲田大学ロシア文学科の井桁貞義先生は、長い間日本におけるロシア文学研究とドストエフスキイ研究における聖書知識の必要性を訴えられてこられた方で、これからもこの分野での研究の流れを確かなものとしてゆこうとされているのですが、先生はその師である故新谷敬三郎先生と共に、河合文化教育研究所で続けられて来た仕事を評価して下さり、今回「ドストエフスキイと聖書」というテーマで、学生の皆さんに話をしてくれないかと依頼されてこられたのでした。
 昨年の暮とは、折しも私自身がカラマーゾフの兄弟論をほゞ書き終えようとしていた時で、この講演に於いてもそこで扱った聖書モチーフの一部を取り上げてお話することになりました。具体的には主人公アリョーシャとイワンの聖書との取り組みを描写するにあたり、ドストエフスキイが如何にユニークに聖書テキストを自分自身で構成し直し、主人公たちに即したイエス像を提示しているかというその現場を、具体的なテキスト分析によって確認したものです。少々煩瑣な作業も入りましたが、ロシア文学を志す若い人たちにドストエフスキイ理解の上で聖書テキストとの取り組みがどのようになされるべきかについて、またドストエフスキイがシベリアでの「聖書熟讀の體驗」(小林秀雄)以来、如何に深い聖書知識に貫かれ、この磁場での思索を展開して行った作家であるかについて、ここで最低限のお話が出来たのではないかと思っています。
また前半でアリョーシャを、後半でイワンを扱ったのですが、その中間部分では、ドストエフスキイを理解する上で必要な「神と不死」の問題について、聖書世界殊に新約聖書の構成とドストエフスキイ文学の関係について、西田哲学の教室を支配していた聖書やドストエフスキイに対する厳しい姿勢について、また私自身の聖書との取り組みや個人的な体験について、そして日本の聖書学のユニークな位置について等々のお話もすることで、若い人たちに様々な情報を提示し刺激を与えるよう努めました。

[7]この講演を井桁先生からのご依頼で、これからロシア文学と聖書とに取り組もうとする若い人たちの参考としてもらうべく、加筆修正し文章化することになりました。そのため講演記録自体に加えて、講演後に主に生徒さんたちとの間で取り交わされた質疑応答の記録も[ ]内にゴシックで付し、またそこに改めて私の説明やコメントも添えて文章化したものが、現在早稲田大学ロシア文学科のホーム・ページに掲載されています。関心を持たれた方は、この会の「研究会便り」・(1)のテキストとしても、以下にアクセスしてご覧下さい。PDFファイルでダウンロードも出来ます。

「アリョーシャとイワンの聖書 ―モスクワ時代、イエス像構成の一断面―」
http://apop.chicappa.jp/wordpress/

先にも記しましたように、明治以来我々日本人が「和魂洋才」の名の下に等閑に附し、自ら遠ざけて来た問題を知るには、これは格好の素材ではないかと思い、敢えて一回目のテキストとして選びました。ここにドストエフスキイ研究会の活動の、殊に上記の[1]と[2]が集約されていると思います。このテーマに初めて触れる方、キリスト教には関心がないという方には、当初はアプローチし難いと感じられるかも知れませんが、今回はこの講演記録を直接参照していただくことで、「ドストエフスキイ研究会便り」の出発点とさせて頂こうと思います。(あるいはこれが帰結点となるものかも知れません)。

[8]次回の「ドストエフスキイ研究会便り」・(2)では、私が書き上げたカラマーゾフの兄弟論の中から、カラマーゾフ家の父フョードルが、家畜追込町の修道院の「場違いな会合」において、如何に巧妙に新約聖書を用いて聖者ゾシマ長老に挑戦するか、そのプロセスを具体的に追ってみようと思います。この異教的原始的生命力の権化であり「好色漢」そのものと目されるフョードルが、実は如何に深くユニークに聖書テキストを読み込み、その知識を以って人の真贋を試みる恐るべき道化であるか、そしてその精神が如何に強く息子イワンに引き継がれてゆくか、また逆にそれはアリョーシャの精神を如何に鮮やかに逆さ写しにするものであるか等について検討してみたいと思います。フョードル像の造型に於いても、ドストエフスキイは聖書テキストを不可欠の土台としているのです。この角度からの分析によって、フョードルという存在とは果たして何であるのかという根本的な「問い」が新たに浮かび上がって来るように思われます。