HOME  >  文教研ぷらす  >  グレートジャーニー ユーラシア大陸は平らだった-ベーリング海峡からアフリカ人類発祥の地のアフリカまで-  >  14.死の決め方とチベットの医学

14.死の決め方とチベットの医学


  ある高僧の死

 ここに行った時にある高僧が死にそうになっていました。
私が医者だということを知っていたので、診に来てくれないかということで、
診に行きました。

見たらもう皮膚の色が黄色でお腹が膨れている。
見ただけで、これはどこか消化器官にガンがある。
そして黄疸が少し出て腹水がたまっていると思いました。
聴診器をあてるともうボコボコと水の音がする。
ということは肺炎になりかけているというか、肺にも転移しているんじゃないかと診ました。
そして、肩の骨がすごく痛いと言っているので骨まで転移している。
もう末期。長くて一ヶ月、数週間、一週間もたないかも知れないと、すぐわかった。
それで、それをお兄さんに告げたんです。

 このあたりで一番偉い高僧で、彼の弟子、家族もいました。
お兄さんとしてはとにかくカトマンズ、ネパールの首都ですが、
治るんだったら病院に連れて行ってあげたいという。

ところが遠い。馬に揺られていったらたいへんです。
もたないかも知れない。それは無駄じゃないですかと僕は言いました。

 たぶんこれからおしっこが出なくなる、そして痛みが一番つらい。
それを和らげることしかできないでしょう。
それ以上のことはできないんです。
カトマンズに連れて行くのは無駄じゃないかといったんです。
それで座薬の痛み止めを与えようとしたんですけど、彼は抵抗を示したんです。
座薬を入れてしまうと便が出ないんじゃないかと思ったようです。
その時点では麻薬の類じゃないともう効かないんですね。
モルヒネの類を持っていればよかったんですけど、持っていない。
その時にここに一緒にいられればよかったんですけど、
一緒にいられなかったので、死ぬ瞬間が見られなかった。
亡くなる時に彼と一緒にいたかったんですけど、いられなかった。

僕が興味を持っていたのは、誰がいつの段階で死を決めるのかを知りたかった。
お兄さんが話をしてくれましたが、
とにかく僕が見た時もそうですが、横にもなれない。
横になると苦しい。咳が出て苦しいから、ほんとうに瞑想するスタイルですね。
座禅を組んだままずっとこう。死ぬ時もそのままだったそうです。

死は誰が決めたかというと、この高僧本人が、
私はこれから行きますといって、家族や他の周りにいる人たちに言葉を残してたそうです。
私は行きます、と。

 だれがいつの段階で死を決めるのか

 行きますと言ったから、それで亡くなったことになる。
その時、瞳孔を見たり、呼吸しているかどうか、心臓が動いているかなんて誰も調べない。
ただ、そのあと3日間、瞑想のまま誰も触らない。
要するに瞑想をさせたままの高僧を置いて、3日後にこうやって火葬しました。

 ここは鳥葬といって、
肉を細切れにして、野に撒いて鳥に食べさせるという方法もやってる地域ですが、
この高僧に関しては火葬にしました。
その時も、瞑想をしたまま火をたいた。

   ユンテン・ラマの火葬。
   僧は末期の癌で、肝臓、肺、骨に転移していた。
   自ら周囲の者に死を宣告して瞑想に入った。

実は、日本にもこういう自分で死を決めるという風習はありました。
例えば空海は何をしたかというと、彼は3月21日に私は死にますと宣言した、
というか予告をして、
まず五穀絶ちですね。食べ物を止める。それから水を絶つ。
そして3月21日を迎えると、自分たちの弟子を全部呼ぶ。
それで最後の言葉をいうわけです。

最後の言葉は、生まれて生まれて生まれて生まれて‥‥、
死んで死んで死んで死んで‥‥といって亡くなった。

もちろん脈もとらず、瞳孔も、心臓も、呼吸も調べない。
そして死ぬということを、見事に死んだわけです

 しかし、その習慣はずっと残っていて、
真言宗では例えば出羽三山ではそれがずっと続けられていて、
いわゆる即身仏、あるいは即身成仏というものがあって、
同じように、あるところで食べ物を絶ち、次に水を絶つ。
そして死ぬということをやっていましたが、1910年に法律で禁止されました。
それはなぜかというと、即身仏になるためには、ほかの人の世話にならないといけない。
そうすると世話する人が自殺幇助罪になるということで禁止された。
それが1910年。もうひとつは、死というものは医者が決めるものだと決めちゃった。
死亡診断書で死を決める。
最近まではそれでよかった。よかったというか、
少なくとも客観的に瞳孔を診て、心臓の動きを診て、脈を診て、
あるいは呼吸を調べれば、医者じゃなくても、
我々、僕も医者だけど、誰でも客観的に診ることが出来たわけです、死というものが。


 脳死・臓器移植という問題

 ところが、それが変わった。
脳死・臓器移植という問題が出てきた。そうすると死の定義が変わってきてしまう。
脳死を死だという人もいるし、脳死じゃないという人もいる。
脳死を死だとすると、医者でも専門の医者でないとわからない。
それも密室で行われるようになる。
要するに、ほんとうに死んだの?ということになってしまう。
場合によっては臓器移植をする、
僕が知っている範囲では、臓器移植をする医者というのはアグレッシブな医者が多い。
そうすると、ドナーへの対処の仕方が待ってる状態です。早く臓器が欲しい。
だから早く判定をしたくなってしまう。そういうことも起こってしまうわけです。
もちろん受け取る人の側にしても早く欲しいというのはわかりますが。

 そのように、脳死というのは常識では考えられない死の判定になってしまった。
それが話題になってる国にずっといた私が、
「自分で死を決める。私がこれから行く」ということが死だ、
と判定するという所へ行ったので、
こちらの方がホッとするというか、非常に人間らしい、人間らしくていいなと思いました。


 チベット医

    患者の脈をとるアムチ(チベット医)

 チベットは高い文明を持っていると言いましたが、医学も進歩しています。
チベット医学ですね。

    アムチの治療には様ざまな薬草やインド製の薬が使われる


薬草がたくさんありますが、もうひとつ、お灸があります。
お灸の鉄の棒を火鉢の中で真っ赤に焼いてじかにジューっとやるから
体がケロイドだらけになります。でもけっこう効くということです。

      鉄の棒をストーブの中に突っ込んで焼き、患者の皮膚に直接灸をする

僕は医者として迷いました。
というのは、伝統医療がしっかりしているところでは、
自分は何もしない方がいいだろうと思っていましたが、
患者さんがどんどんやって来てしまった。
 ただ、僕が診察して薬をあげる、そして隣りにチベット医がいるとすぐそっちにも行く。
それで診てもらう。もう少し離れたところでやってくれよと、思いましたが、
その逆もあって、すぐそばでチベット医に診察してもらって薬ももらったのに、
横に僕がいると、僕のところに来て、先生診てよって言う。
ちょっとチベット医に失礼じゃないかなと思いましたが、そうじゃないみたいでしたね。

 あんがい日本人と似ている。
彼らはチベット仏教徒でしたが、そのお坊さんに頭を手で撫でてもらったりしますが、
ヒンズー教の偉いお坊さんがやって来ても、頭を出す。
それはどういうことかというと、ありがたいものは何でいいということですね。
医療でも同じで、要するに効けば何でもいいから欲しい。
薬でもなんでもいいから、効果さえあれば何でもいいから欲しい。
それは日本人でも同じです。
神社やお寺へ行くし、結婚式は教会でやったり、クリスマスはクリスマスでやるし、
医療でも同じです。
いわゆる西洋医学の病院へ行ってあまり効果がないと整体に行ったり、漢方へ行ったり、
果ては神社とかお寺に行ってお祈りする。

そういう「実際的」という意味では非常によく似ている人たちだと思いました。

 チベット医が少し苦手なのは、やっぱり感染症とか皮膚病ですね。
化膿性の皮膚病になるとやっぱり西洋医学、抗生物質が必要です。
ところが、もの凄くでかい患者さんが来る。何かというとヤクです。
牛のでかいやつ。
あれを連れてきて「治してくれ」って言う。
どうしたのと聞いたら、家畜を襲う雪豹などに背中をやられたというんです。
それを治してくれ。
原理は動物でも人間でも同じなので治しますが、薬の量がすごく多量にいる。
それもけっこうたいへんでした。とにかく実際的な人々です。

 

 グレートジャーニーでは「旅は人力のみ」というルールを作った

 グレートジャーニーは奇跡の旅だった

  イスラムの人たちの優しさ

4 「足るを知る」アファール人

5 人間は進化はしていても進歩はしていない

 自然に優しいとはー3つに集約

7 トナカイ橇で旅をしたかった

8 「優しさ」さえあれば、どうにでもなる

9  当たり前のことがいかに大切か

10 「海のような人」

11 チベット。欲望、祈り、巡礼

12 中国のチベット以上にチベットの文化を残しているネパールの北ドルポ

13 大人に媚びない。良く働く子どもたち 

14 死の決め方とチベット医学

15 グレートジャーニー完結。タンザニア ラエトリ遺跡