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中川 久定

 

中川  久定 (なかがわ・ひさやす)
(故人)

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プロフィール
著書 
シンポジウム・講演会
わたしが選んだこの一冊
わたしの近況
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◇◆ プロフィール ◆◇

中川久定(1931-2017)
1931年東京生まれ。
京都大学文学部仏文科卒。
専攻・フランス文学史・思想史。文学博士。
京都大学名誉教授。
日本学士院会員。
元京都国立博物館館長。
元国際高等研究所副所長。
元国際18 世紀学会副会長。
国際18 世紀研究センター学術委員(フランス、フェルネ=ヴォルテール)。
研究誌『ディドロ・百科全書研究』(フランス)査読委員
研究誌『ディドロ研究』(カナダ)評議会委員

18 世紀フランス文学・思想の実証的比較分析を行う。
「自伝」にこだわり、塾生や若いひとたちに向けた文章は、常に自己の生の軌跡、体験と重ねて語っていた。
2017年6月18日逝去。享年87歳。

1976 年辰野賞(日本フランス語フランス文学会)
1986 年パルム・アカデミック勲章オフィシエ級(フランス)
1993 年京都新聞文化賞
2001 年勲2 等瑞宝章
2004 年レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ級(フランス)
2007 年京都府文化賞特別功労賞受賞。





◇◆ 著書 ◆◇

『自伝の文学-ルソーとスタンダール-』
『ディドロの『セネ力論』-初版と第2 版とに表現された著者の意識の構造に関する考察-』
『甦るルソー-深層の読解-』
『ディドロ』
『啓蒙の世紀の光のもとで-ディドロと『百科全書』-』
『転倒の島-18 世紀フランス文学史の諸断面-』

河合文化教育研究所から
『ディドロの〈現代性〉』(河合ブックレット)、
J・シュローバハ氏との共同編著で18 世紀国際シンポジウム論集の日本語訳『18 世紀における他者のイメージ』
『L'image del'autre vue d'Asie et d'Europe』(ed.par H.Nakagawa et J.Schlobach)
『Memoires d'un《moraliste passable》』S・カルプ編 中川久定/増田真監訳『十八世紀研究者の仕事 知的自伝』

ある時期以降は、すべての著書を、フランス人ならびに欧米の読者に読んでもらい公正な評価をえるために、フランス語で執筆していた。
Des Lumieres et du comparatisme, Presses Universitaires de France,Paris, 1992
 Introduction a la culture japonaise, Presses Universitairesde France, Paris, 2005
(スペイン語訳、バルセロナ、Melusina, 2006 年;イタリア語訳、ミラノ、Montadori, 2006 年;ポルトガル語訳、サン・パウロ、Martins,2008 年)
 Memoires d’un ≪moraliste passable≫, Centre internationald’etude du XVIIIe siecle, Fernay-Voltaire, 2007
 L’Esprit des Lumieres enFrance et au Japon, Champion, Paris
『L'sprit des Lumieres en France et au Japon』 (『啓蒙の精神  フランスと日本』)


 

 

◇◆ 『わたしが選んだこの一冊』(2010~2015) ◆◇

・2010年 「退屈な話」『六号病棟・退屈な話・他五篇』チェーホフ 著 (松下裕 訳)
・2011年 『野火』大岡昇平 著
・2012年 『カラマーゾフの兄弟』(1、2、3、4、5) ドストエフスキー 著  亀山郁夫 訳
・2013年 『「コーラン」を読む』井筒俊彦 著
・2014年 『哲学の三つの伝統』他十二篇 野田又夫 著
・2015年 『ドゥイノの悲歌』リルケ 著 手塚富雄 訳

 

 


◇◆ シンポジウム・講演会 ◆◇

日仏国際シンポジウム 18世紀世界の中のヨーロッパ、中国および日本(1997)

日仏国際シンポジウム 青年の現在〈パリ──名古屋〉(1984)

日仏国際シンポジウム 日本の心・フランスの心(1984)

 

 

 

◇◆ わたしの近況 ◆◇

(2015年 夏)  一瞬の映像をめぐって──自らを犠牲にすること──

(2013年 夏)  近況

(2012年 夏)  28歳から81歳まで

◇◇ 近 況 ◇◇

 (2015年 夏) 
 一瞬の映像をめぐって──自らを犠牲にすること──

昨年(2014 年)の4 月16 日、韓国の旅客船セウォル号が、目的地済州島(チェジュド)の港に到着する直前、珍島(チンド)沖で航路を変更しようとして急旋回したため、船体が傾き、沈没してしまった。元来、船体上部に無理な増築がなされていた上に、過積載で、かつ貨物の固定も不十分だったので、船の復元力が著しく低下していたのである。

この船には合計476 名が乗船していたが、死者・行方不明者304 名、生存者は172 名だった。その中に、修学旅行中の女子高校生325 名が乗っていたが、死者・行方不明者250 名で生存者はわずか75 名だった。

私はテレビでこの時の状況を見ていたが、その中に、船が沈む直前、誰かが携帯で撮った2 人の女子生徒が映し出されていた。後ろの1 人は上級生、前の1 人は下級生。背後の上級生がその場で自分の体から脱いだ救命胴衣を、すぐ前の下級生に着せようとしていた。

見たとたん、私の両眼から涙があふれ出してきた。年長の生徒が、自分が溺れ死ぬとしても、年下の生徒を助けようとしていたことは明らかであった。人間がなしうる行為のうちで、これ以上崇高なものがありうるだろうか。他方、セウォル号の船長が、制服を脱いで一般人を装い、真っ先に船を脱出しようとしている映像も写されていて、やりきれない思いをした。だが、卑怯な人間もいれば、このように崇高な人間もいるのである。

(二)
これもまた、昔テレビで偶然に一度だけ目にした映像がある。先の第2 次世界大戦中、ナチスによってユダヤ人が大量に虐殺されていた時代のことである。

ある強制収容所で、2 人の子ども(小学校1 年生か2 年生に見えた)を自分の両脇に抱きかかえるようにして立っている神父がいた(確かコルベという名前だったと思う)。彼は、恐怖で震えている子どもをしっかりと支えながら、怖がることはない、私がずっと傍にいるのだから、と、言葉と態度で示していた。純粋にドイツ人であり、いささかも身に危険のなかったコルベ神父は、こうしてユダヤ人の2 人の少年と一緒にガス室に入って死んでいったのである。

(三)
人間は複雑な存在であるから、時には卑劣な面を見せることもあるであろう。しかし逆に、崇高な、あるいは神聖な顔を見せることもあるのである。この多面性は、例えば、ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』が、あますところなく書ききっている。

歴史的事実に関する主題に、フィクションを扱う小説家の立場を混ぜていることに違和感を持たれるかもしれない。しかし、心理分析家ドストエフスキーの洞察力は、しばしば普通の人間の考えを遥かに超えている。このロシアの小説家の登場人物たちは、私たちと交友関係にある誰々よりも、はるかに実在性を感じさせるのであるから。

 

 

(2013年 夏)
 近況

私にも「年貢の納め時」が近づいている。小学校一年生の頃、大人になったら何になりたいか、と父に聞かれた。私は即座に、「天文学者になりたい」と答えた。原田光夫の2 冊の本、すなわち『子供の天文学』と『子供に聞かせる科学の話』(恒文社)を読んだからだった。私は天文学者にはならず、フランス思想史の研究者にはなった。大学一年生の時、私はフランス文学志望の学生数人とよく集まり、ガリ版刷りの同人雑誌『季節』を出すことになった。1950 年11 月発行の第1 号には私の「ある季節の風景」という一文が掲載されている。終始、凄みをきかせた文章の中には、当時の私の内面の空虚さ、あるいは自信のなさが如実に表現されている。ただし、私がそこに引用しているアランのデカルトに関する一句だけは、今もそのままに私のなかに生きている。「けだし我々のうちには唯一の精神しかなく、またこの精神は自己の中に相異なる諸部分をもつものではない。感覚的な精神が同時に理性的なのであり、すべてその欲望は意志なのである」と。私はその後、これまで、アランのこの言葉のように生きてきた、という事実に今、はっきりと気づかされている。フランス18 世紀後半の思想史という狭い分野でしか、私はこれまで仕事をしてこなかったが、その研究をまとめた1 冊の本『啓蒙の精神 フランスと日本』の中に、私は私自身のすべての感覚性、理性、欲望の三者を投げ入れている。そこで問われているもの、それは当時の知識人たちの実存である。18 世紀後半のフランス。神への信仰を擁護するカトリック教徒、それと対抗して、宗教的義務感に近い感情をこめて、それぞれ自らの反宗教的立場を固守する無神論者と理神論者たち。賭けられるものは、両者それぞれに固有の実存であり、私に問われるものもまた、私の感覚と理性と意志、すなわち大学入学以来絶えず私に問われ続けてきた、私自身の実存、すなわち私の全存在にほかならない。



(2012年 夏)
 28歳から81歳まで

私はいつも、誰に対して書いているのだろうか。自分自身に対して ―― 自分のうちにあって、自分が表現する言葉をじっと見つめ、その視線に耐えられないものは直ちに切り捨てて、自らのうちに立ち現れてくる考えを、自分自身に対して書いているのである。私が名古屋大学教養部から京都大学文学部に助教授として移ってきたあと、『文学部研究紀要』に、1973 年3 月と1975 年3 月と、2 度にわたって、フランス18 世紀の著作家ドニ・ディドロ最晩年の、文学的遺書とも称すべき大著『セネカ論』についての論文を発表した。

ほどなくして私は、巻き紙に墨書された吉川幸次郎先生からのお手紙を頂戴した(かつてはフランス文学科の学生であり、吉川先生のご退官後しばらくしてから京大に勤めることになった私は、それ以前にも、当時も、中国文学講座の教授であった吉川先生とは、なんのつながりもなかった)。そこには、次のような趣旨のことがしたためられていた。――私は君の論文を読んだ。高度に専門的な事柄が、誰にでも分かる平明な言葉で書かれていた。本当の学者でありうるための第一の要件は、すべてを誰にでも分かる言葉によって書く、ということである。自分は確信している。君がいる限り、京大文学部は大丈夫である、と。この書簡に接した時、私は44 歳であった。

それよりずっと以前にさかのぼる。大学院修士課程の学生であった私は、関西日仏学館で、館長グロボワ先生から週一回、午前中の授業を受けていた。毎回書き取りがあり、厳しく採点されているうちに、最後に残った受講生は私ひとりになった。それから学期の終わるまでの1 か月間、土曜、日曜を除き毎朝、私だけに3 時間の演習が行われた。狭い教室で、辞書『リトレ・エ・ボージャン』だけを与えられ、課題論文を書かされるのである。その題を1 つあげるとすれば、「事実(fait)とは何か」であった。翌朝には答案が返されたが、いたるところに真っ赤な斜線が引かれていた。先生は一体どんな気持ちで、この誤りだらけの答案を読まれていたのだろうか。私はその後、東京日仏学院でフランス政府給費留学生選抜試験を受けようとしていた。その私のために、グロボワ先生が書いてくださった推薦文の中には、次の言葉があった。――中川は、「精神の独創的な形(une formed'esprit originale)」を備えている青年である。それ故、彼を「特に強く(tout particulierement)」推薦する、と。私は28 歳であった。

あれから53 年が飛び去って行った。 
 
哲学者アランの弟子であったグロボワ先生のこの評価と、吉川先生のあの文章を、かつて私はそのまま信じていたし、今もそのとおりに信じている。この2 つの言葉に、私は今も支えられながら、近くフランスで出版される第4 冊目の著書に、毎日手を入れている。――L'esprit des Lumieres en France et auJapon(『啓蒙の精神―フランスと日本』)2013年、全2 巻、計850 ページ、パリ、HonoreChampion社。