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牧野 剛

  
牧野 剛 (まきの つよし)
(故人)       


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プロフィール
著書 
シンポジウム・講演会
わたしが選んだこの一冊
わたしの近況
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◇◆ プロフィール ◆◇ 

牧野剛(1945ー2016)
文教研特別研究員。
名古屋大学文学部国史科卒業。
私塾、養護学校教諭、高等学校教諭などさまざまな教育現場を経て、1976年より河合塾国語科専任講師として予備校の教壇に立つ。
元国語科、小論文科主任。2013年より現職。
河合塾の数々のイベント・シンポジウムを企画し、実現してきた。
特に「日本・中国・韓国」三国の大学入試統一テストを比較分析し、衛星放送を通じて討論した番組は東アジア各国の特徴が見られ、先駆的であり、話題となった。

学生運動・市民運動の中心を担い、社会の矛盾を問い続けてきた姿勢が、その予備校教育に生きており、30年にわたって多くの予備校生、高校生に絶大な支持を得てきた。
1984年の「全国共通一次試験」の国語問題(藤田省三『精神史的考察』)をズバリ的中させ、大きな話題になる。
その後、東大、京大の出題問題も的中させている。大阪校、福岡校、仙台校などを提案し、河合塾の全国体制の基礎作りに貢献。
その全国展開に伴って、全国模試の体制、ベーシック(低学力)コース、コスモ(大検)コース、サテライト(衛星)授業の設立なども提案、実現してきた。
また、カンボジア学校支援も行ってきた。

文教研では、2010年に『わたしが選んだこの一冊』という推薦図書の発行を提案し、現在2015年版まで6冊が出され、主任研究員、河合塾の講師が執筆して大きな反響を呼んでいる。

当たり前と思っていることを根本からひっくり返す革命的とも言える着想から、マスコミを通して日本の若者文化や教育問題について積極的に発言してきた。
文教研設立の基盤を作り、それぞれの分野で屹立した思想家や研究者を主任研究員として招聘した。

 

2016年5月20日逝去されました。

文教研の特別研究員だった牧野剛先生が今年の5月20日に急逝されました。牧野さんといえば、この河合文化教育研究所の創設にも当初から尽力され、また河合塾のベーシックコース、大検コース・コスモの創設や、「日中韓の大学入試統一試験比較分析」という東アジア三国の衛星シンポジウム、最近の「わたしが選んだこの一冊」の発行を提案するなど、他予備校では考えられない斬新な試みを河合塾で発案・実現してきた方です。それは、ご本人の予備校としての河合塾への強い思い、そして独自の教育観、文化観に根ざしていたと思われますが、その根幹には、多様な子どもたちを、その多様性のままに受けとめ、その上で彼らが持つ豊かな潜在能力を彼ら自身の力で汲み出していけるように大人が手を貸してやるのが教育だ、という彼なりの信念があり、そうした子どもの自発性を育むためには、まずは予備校自体が自由で知的刺激に満ちた風通しの良いところでなければならない、ということがあったと思います。



こちらもご覧ください
    ↓

◎ 牧野 剛 特別研究員 を「偲ぶ会」

◎ 牧野 剛 推薦図書館




牧野さんは一昨年の「私が考えてきたこと」 『文教研の栞』2014)で
「私は、子どものときから長らく文学史や民俗学に興味を持ってきた。そして密かに、歴史と民俗学の合体のようなものを、自分の一生の研究の対象にしようと思ってきた」
と書かれています。そして、推薦する図書も最初から何冊かは決めているとおっしゃっていましたから、昨年までに取り上げたものからその意図が濃く見えてきます。




◇◆ わたしが選んだこの一冊 ◆◇(2010~2015)

・2010年 『「日本」とは何か』網野善彦 著
・2011年 『「理科」で歴史を読みなおす』伊達宗行 著
・2012年 『歴史の進歩とは何か』市井三郎 著
・2013年 『人間の歴史(1~5)』安田徳太郎 著
・2014年 『遠野物語』柳田國男 著
・2015年 『地の群れ』井上光晴 著




◇◆ 著書 ◆◇

『予備校にあう』
『されど予備校:予備校から“世界”を覗る』
『偏差値崩壊―本当の学力を見失う偏差値(くらべっこ)の呪い』
『人生を変える大人の読書術』ほか。

共著:『国境を越えて―東欧民主化とEC統一の若者への旅』鎌田慧
『現代文と格闘する』竹国友康、前中昭

河合ブックレットの解説
『ディドロの〈現代性〉』中川久定
『世紀末世界をどう生きるかー「新右翼」の立場から』鈴木邦男、
『グレートジャーニー2001年地球の旅』関野吉晴

 

 

◇◆ シンポジウム・講演会 ◆◇

河合国際シンポジウム 日・中・韓の大学入試統一試験を社会的・文化的に比較分析する(1996)
河合国際シンポジウム ボンジール学校・アデュー学校(1990)
日独国際シンポジウム 日本とドイツの若者は──いま(1993)


 

 

◇◆ わたしの近況 ◆◇

(2015年 夏)  私が考えてきたこと ──テストと採点について 

(2013年 夏) 私が考えてきたこと 



 (2015年 夏)
  私が考えてきたこと ──テストと採点について〉 


私には、ずっと長いあいだテストの採点について「気になること」があった。その最初は、遠く小学生のころに、学校でやったテストの答案用紙を返してもらったときの「ふーん」という感覚にまで遡る。テストを返してもらうときに、自分の点数のことよりも、教師がつけた「採点の仕方」の方が気になったのである。採点を見て、子どもながら、「こんな〇×だけの点のつけ方ではぜんぜん面白くないな」という素朴な感じを抱いたのがはじまりであった。

私は岐阜県恵那で小学、中学、高校の子ども時代のすべてを送ったが、そこは戦後の生活綴方教育運動の高揚など、ある時期、つまり私が子どもだったころ、「恵那方式」という戦後日本の教育運動と教育実践に実験的な意味を持った特別の地域であった。民主教育に燃えた共産党系の革新的な教師がたくさんいた。彼らは、「民主的な新しい教育」をめざしてはいたが、テストの答えに子どもにありがちな「はみ出した解答や独創的な解答」は認めず、ともかく彼らの考える模範解答だけを〇にし、あとのすべてに×を機械的につけていたのである。それが幼い子どもにも、「こんなことでいいのか、面白くないなあ」という漠然とした疑問をもたせたのである。自分が何を期待していたかはわからないが、返してもらった答案用紙に、アッと驚くことや学ぶことがなにもなく、なにかつるつるしたつまらない印象があった。

それからというもの私は、国語でも算数でもテストでは単に教科書どおりの正しい答を書くのではなく、何でもいいからともかく教師が期待するものとは絶対違う形で自分の答を書こうと思い立った。0点しかもらえなくてもいいから、子どもながらに自分の独自性を出そうとしたのである。使命感を持った教師から見れば、扱いにくいひねくれた子どもだったと思う。実際それ以後、高校卒業までの12年間、彼ら「民主的」な教師とことごとく対決していくのが、私の学校生活の大きな課題となった。彼らの民主教育の中身とその欺瞞を暴いたり逆に教師から反撃されたりするという、学校での緊張関係の中で、私はさまざまに鍛えられたのである。

本来、テストの解答は〇×だけで決まるはずのものではない。正解の〇はともかく、×の方にはさまざまな豊かな答えと段階があるはずである。×といってもその中には、半分〇、△△、△マイナスなどさまざまな程度や幅があるのである。ほぼ正解なのにすこしだけ勘違いのある解答、問題の意味はわかっているけど間違ってしまった解答、半分くらいしか問題がわからなくても一生懸命解こうとした努力のあとのある解答、初めからまったくわかっていない解答など、その幅は広いはずである。にもかかわらず、これが全部同じ×になるのでは、試験を受ける子どもの具体的な学力は測れないのではないか。これは学力を測るというテストの本来の目的からしても非合理なことである。ここをなんとかしなければいけないのではないか。私はずっとそう思ってきた。採点が、○と×だけなら採点者はたしかに簡単だが、それは真に学力を測り、子どもたちの力を伸ばすことにはならないのだ。

×の採点が、もし幅を持った多様なものに変われば、試験を受ける子どももどこで自分がつまずいたか、なぜここまでしかできなかったのか、という間違いの段階がわかるようになる。そうして、自分のいまいる位置が測れれば、次の試験に向けて何をしたらよいか自分で変化することができるのである。

教育とは、端的にいえば、子どもが変化することがすべてである。いかに「自分の可能性の井戸」を掘り当てるか、そしてそこから自分の力を汲み上げられるか。それはテストにおいても同じである。もし採点方法が柔軟で幅のあるものになれば、変化は見えてくるはずである。そして採点のつけ方がこのように変化するなら、おのずとテスト問題の変化にもつながると思う。
私自身は、文科省が今のセンター試験を改めて2021年ごろに打ち出そうとしているいわゆる「新テスト」について、いろいろ考えている。また文科省に先がけて、「新テスト」のモデル問題を知り合いの先生方に頼んで作ってもらったりもしている。

だが、これには問題作成からのアプローチだけでなく、採点方法からのアプローチも必要だと気がついたのである。新テストは論述問題だから、いままでのように○×式ではない。したがって、どうやって答えに到達するかということを自分流に考えることが重要である。


ここから何が考えられるか。100点満点のテストの最低点はもちろん0点である。


だとしても、このテストの真ん中は50点ということにはならない。33点や43点ということもある。問題は、横並びでの「相対評価」ではなく、「縦の評価」、つまり自分の中でどう変われたか、この場合で言えば、「1点ずつでも点をあげてくることができたかどうか」という自分の歴史のなかでの評価の問題にかかっているのである。

 

(2013年 夏)
 私が考えてきたこと 


 私は、子どものときから長らく文学史や民俗学に興味を持ってきた。そして秘かに、歴史と民俗学の合体のようなものを、自分の一生の研究の対象にしようと思ってきた。それにはいくつかの理由がある。

 その一つに、小学校に入る前に幼い私に祖母が何度も繰り返し語って聞かせた話がある。この話が私の内に一つの核を形成し、小学校時代には安田徳太郎の本(『わたしが選んだこの一冊』2013年版参照)を読み続けることになった。今度はその安田徳太郎の影響で、その後のおびただしい読書の中に柳田国男や宮本常一などの民俗学を読むという一つの筋ができていった。さらにそこに、学生になってからのさまざまな師との個人的な関係(中川久定氏・故谷川道雄氏・故廣松渉氏・故網野善彦氏など)と若き日の学生運動が、この歴史と民俗学の合体のうちに物事をみる、あるいは歴史の背後に常に生きた人問の生活を捉えようとする私の傾向を決定づけていった。

 ここでは、祖母の話について書こう。

 子どものとき、毎日、駅で汽車を何時間も眺めながら祖母から同じ話を何回も聞いた。それは祖母が実際に目撃したものではなく、彼女の母やその祖母の直接の目撃談として「彼女が伝え聞いたもの」であった。

 明治維新の前、大井の宿(注1)に、数百人の水戸の浪士が命からがら逃げ込んできたので、憐れんだ大井の宿の人々が彼らに食い物や水を与えて休ませた。しかし彼らはそこに長く留まることなく、最後にはアルプスを越えてどこかへ去って行ったという。学歴も知識もない祖母たちは、彼らを「井伊大老」を切った水戸の浪士たちだと信じていて、伝え聞いた細かいエピソードを交えながら私に何度も話すのであった。しかし、長じて、私はそれが桜田門外の変(1860年)より4年あとの「水戸天狗党」の反乱者の浪士であることに思い至った。

 それで歴史の本や絵を祖母に見せて、彼らは「水戸天狗党の乱」の浪士たちであり、水戸から中山道を下ってきて、最後には敦賀で処刑された(死罪352人、島流し137人、水戸藩渡し130人)ことを示し、この北陸(注2)での数百人(女性も数人いた)を越える処刑事件の大きさからして、桜田門外の変を引き起こした水戸浪士の二十数人ではないことを何度も説明した。しかし、祖母はついに納得しなかった。おそらく無学の祖母は、本の知識による私の整合的な説明よりも、自分が実際に伝え聞いたという経験の深さを信じたのだと思う。この庶民の中に根付いたものの強固さというものが、私の中にある名状しがたい感覚として残った。

 記述された歴史の背後には、自明なことながら、人々が生きた膨大なエピソードが存在する。その奥行きにまで目が届かなければ、歴史は本当には見えないのではないかと考えている。

 (注1)岐阜県恵那市の中仙道大井の宿。祖母の生家はその宿の坂の上の「上宿」。彼らの信奉した水戸学や平田国学の信仰の地が恵那、中津川であった。(島崎藤村『夜明け前』)。

 (注2)この事件で、水戸藩は明治維新の前に反乱者として数百人の人々を失い、反乱者の手で幕府側の水戸藩の支持者も失ったので、明治政府の中心に人を送ることができなかった。その反省で、次の戦争(太平洋戦争)で水戸から18万人をニューギニア戦線に送ったが、食糧難とマラリア等でほとんど戦闘なしに17万8千人が戦死した。飢餓のため死んだ戦友を「食べた」と、60年目に告白した水戸の老人を、九州のテレビで見たことがある。