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丹羽 健夫

 

  
丹羽 健夫(にわ たけお)
(故人)



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プロフィール
著書 
わたしが選んだこの一冊
書評コラム『教育を読む』
わたしの近況
メッセージ

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◇◆ プロフィール ◆◇

文教研主任研究員
名古屋大学経済学部卒
中西学園理事
元名古屋外国語大学客員教授

1967年より河合塾勤務。以来一貫してカリキュラム作成、生徒指導、教員確保、生徒募集に従事する。
進学教育本部長、理事として河合塾のみならず、日本の予備校教育の責任を担い、著作活動やシンポジウムなどを実施し、そこで発言をしてきた。

中等・高等教育問題等の出稿、高等学校・大学での講演等をこなし、教育の現場から制度まで教育全般について幅広くメッセージの発信を続け、河合文化教育研究所主任研究員として活動を続けた。

手がけてきた研究に「寺子屋・フィンランドの教育・そして日本の教育」がある。
河合塾教育情報部編集の高校の先生方向け情報誌『ガイドライン』書評コラム「教育を読む」にも執筆をした。

2019年4月9日、急逝。 享年83歳。





◇◆ 著書 ◆◇

『留学と日本人』
『愛知の寺子屋』
『予備校が教育を救う』
『悪問だらけの大学入試』
『眠られぬ受験生のために』
『親と子の大学入試』(共著)
『星の王子・王女たちの留学物語』(監修)
ほか多数


 

 

◇◆ 『わたしが選んだこの一冊』(2010~2015) ◆◇

・2010年 『1973年のピンボール』村上春樹 著 
・2011年 「夢十夜」『夏目漱石全集』夏目漱石 著
・2012年 『晩年』太宰治 著著
・2014年 『深海の使者』吉村昭 著
・2015年 万葉秀歌(上・下) 斎藤茂吉 著

 

 

 

◇◆ 書評コラム『教育を読む』 ◆◇

河合塾教育情報部編集の高校先生向け情報誌「ガイドライン」書評コラム『教育を読む』の執筆
2015年4/5,月号 江戸川乱歩著『少年探偵―怪人二十面相』
 〃 7/8月号 シュリーマン著『古代への情熱―シュリーマン自伝』
 〃 9月号 坂井三郎著『大空のサムライ』上・下
 〃 11月号 阿久悠著『瀬戸内少年野球団』
2016年4/5月号 麻生和子著『父吉田茂』

 

 

 ◇◆ メッセージ ◆◇

◇大学入試に対してどのように向き合えばよいのか

◇日本語は面白い

◇予備校は寺子屋だ

 

 

◇◆ わたしの近況 ◆◇

(2015年 夏)  わたしの浪人時代

(2013年 夏)   日本人の留学-長州ファイブ-

(2012年 夏)   事実の重さ
 

◇◇ 近  況 ◇◇

(2015年 夏) 
 
わたしの浪人時代

私も浪人した。今を去ること半世紀も昔だ。そして河合塾に通った。挙母(ころも)町(現豊田市)から名鉄三河線の知立(ちりゅう)で乗換え、金山で降り、チンチン電車の市電に乗って桜山で降りる。河合塾の校舎はいまでこそ日本中に数十箇所もあるが、当時は木造の桜山校しかなかったのだ。家を出て片道一時間半かかった。

当時大学短大の定員は約20万人、志願者は約50万人で大学の門は狭かった。当時日本は高度経済成長期の直前で、貧乏国時代であった。それだけに浪人するなどということは、最大の親不孝であり、浪人は強い「日陰者意識」を胸に抱えていた。最寄の駅から予備校までの道は、不思議に全国共通して「親不孝通り」とよばれた。それだけに浪人生の心意気にも切羽詰ったものがあった。四当五落などという言葉が流行った。一日五時間の睡眠では合格しないぞ、四時間睡眠でやっとだぞ、という意味である。

そんなわけで予備校へ入ればがんじがらめの大学入試問題づくしと覚悟していたが、その思惑ははずれた。高校の授業よりも余裕があり、面白いのである。

英語講読は塾主の河合逸治先生の担当であった。教材はバイロンの「チャイルド・ハロルドの巡礼」であった。擬古文でしかも詩文ときている。これは難物だと身構えたが、講義の中身は格調高く、英文学の魅力にあふれた内容であった。河合逸治先生は英文学者であったのだ。バイロンは一学期中続いた。

国語は、教材は与謝蕪村であった。『春風馬堤曲』をはじめ

愁ひつつ丘に登れば花茨(いばら)

などの詩句であった。

蕪村は江戸時代の人であるが、『春風馬堤曲』などは現代詩かと思わせるような身近さを感じさせるものであり、一驚した。蕪村も一学期中続いた。

夢のような河合塾での一学期は終った。

夏休み、郷里の挙母に東京のS予備校に行っていた友人たちが帰ってきた。予備校の教科書を見せ合った。友人たちは「お前何をのんびりやってるんだ」といった。S予備校の教科書をみると大学入試問題の羅列であった。問題の最後に「XX年度YY大学出題」とあるのが眩しかった。しまったと思った。二学期は東京に下宿してS予備校にかよった。

あれから半世紀が経った。いまS予備校の教科書は頭の中からきれいに消えている。しかしバイロンや蕪村は一部暗誦できるほど心身の一部となって残っている。


 (2013年 夏)
  日本人の留学-長州ファイブ-

 「日本人の留学」について調査し本を書いているが、「長州ファイブ」の物語が面白い。長州ファイブとは、英国に留学したのち、明治18年に最初の内閣総理大臣となる伊藤博文、外務大臣の井上馨、など明治の重鎮五名のことである。なかでも伊藤、井上は留学以前は意外にも尊皇攘夷派の雄で、高杉晋作ら総勢12名とともに英国公使館の焼き討ちに加担している。それがなぜ英国留学かについては、壮大な攘夷が狙いであったという説がある。つまりたかが一人や二人切り殺しても埒が明かない、黒船を退治するには黒船を以てするしかない。つまり英国で海軍を学び、日本海軍を建設するために英国に向ったのである。しかし途中で立ち寄った上海で、何百艘という艦船群を見てこれは海軍という末梢的な問題ではない。国力の問題である。文化文明の問題であると開眼したという。つまり文化文明を国にもたらすという目的に志を変えたという。攘夷から開国に一挙に変身したのである。しかしこのイギリス行きは鎖国の幕政下では密航であった。露見すれば死を覚悟せねばならない。ロンドンに着いた彼らはロンドン大学のユニバーシティ・カレッジで化学・地学・土木・数理・物理などを学び始める。しかし到着後半年弱のとき、米英仏蘭の四国艦隊による故国長州に対する砲撃と占領の報に接する。長州で攘夷論が大勢を占め、下関海峡を通る外国の船舶を砲撃したことに対する報復である。すでに攘夷の無意味さが骨身に沁みていた伊藤と井上は、無駄な戦争をやめるよう故国を説得するために日本に向う。

 この物語で面白いのは、当時英国までは片道で半年もかかったこと、そして伊藤が現地にはたった五ヶ月ばかりの滞在で、英語で演説できるほど言葉を吸収したことである。




(2012年 夏)
  事実の重さ

 昨年3月11日、大地震とともに三陸海岸を大津波が襲った。明治以後、三陸海岸を大津波が襲ったのは今回が4度目である。

 吉村昭(1927―2006)という作家がいる。彼は何度も東北、なかでも三陸地方を尋ね歩き『三陸海岸大津波』という本を書いている。当時87歳で明治29年の大津波も経験した早野幸太郎という老人をはじめ、何人もの人を取材している。そして大地震、大津波の一月ほど前から未曾有の大漁があったことや、津波の来る直前に大砲の砲声のようなものが何度も聞かれた、などの前兆話を拾っている。
 もちろん大津波のもたらした悲惨な被害も書いているのだが、それでも「三陸海岸を旅する度に、私は、海にむかって立つ異様なほどの厚さと長さをもつ鉄筋コンクリートの堤防に眼をみはる。......が、その姿は、一言にして言えば大袈裟すぎるという印象を受ける」と書いている。三陸海岸の大津波を、研究し尽くした吉村昭にしてさえ、このように言わしめているのだから、その堤防すら破壊した昨年の大津波が、いかに前代未聞のものであったかが分かる。

 このように吉村は『三陸海岸大津波』を書くために現地に足を運び、においを嗅ぎ、人から話を聞き、資料を調べている。それゆえ彼の作品には事実の重さが満ちている。

 後年に入って事実の重さに惹かれるように、彼は記録文学に傾斜する。『零式戦闘機』もそのひとつだ。第二次大戦前半、戦闘機として必須な速力、上昇力、航続距離、旋回性能、いずれにおいても他国の戦闘機を寄せ付けない世界最強の戦闘機だ。

 しかし吉村は本著では零戦の華麗な戦闘振りをもっぱら追うのではない。零戦の設計にあたった人、場所、経過など事実を追い求めているのだ。すると意外なことが浮上してくる。

 零戦は当初、三菱重工業名古屋航空機製作所で開発され製作されていた。そこは港の近くで飛行場はない。最寄の飛行場といえば岐阜県の各務原飛行場であった。完成した零戦を、そこまで運搬するのに牛車や馬車が使われた。

 あらゆる近代技術の集約である零戦が、なんと平安朝の貴族よろしく牛車や馬車で、未舗装の凸凹道を運ばれていくのだ。48キロの道を24時間かけて運ばれていくのだ。これこそ近代技術の粋と、時代遅れのインフラストラクチャー(社会資本)のアンバランスを、痛烈にあぶりだす冷厳な事実ではないか。重い事実ではないか。

 さらに『戦艦武蔵』ではまたしても意外な事実を、吉村は繰り出してくる。

 武蔵は大和の姉妹艦だ。大和は呉の造船所で造られ、武蔵は長崎で造られた。艦の全長は263メートル、最大巾38・9メートル、46センチ口径の主砲9門を持つこの世界最大の機密兵器の巨艦を、世間の目からどう隠したらよいのか。

 呉はもともと軍港なのでさして問題はない。問題なのは長崎である。海軍はなんと棕櫚のカーテンで全艦を覆うことを発想した。そのためには膨大な量の棕櫚が要る。海軍は日本中の棕櫚という棕櫚を集めた。そして巨艦を覆った。

 吉村は何度も長崎に足を運び、関係者や市民から話を聞き、ついに武蔵造艦のベールを剥がす。そして書かれたのが『戦艦武蔵』である。

 どうです。事実の重さが分かったでしょう。さあ君も事実の重さの探索に入ってください。たとえば数学という事実。数学は誰が作ったのか、数学を学んでどう人間が変わるのか。数学は将来役に立つのか。
などなど。
 

(2012年 夏)
 寺子屋に凝る

 昭和6年に愛知県教育会は県下の全小学校に依頼を出した。「あなたの学校の周辺で、むかし寺子屋に通った経験のある老人を探し出し、寺子屋の話を聞け。調査項目は以下の15項目」というものである。そのとき先生方が発掘した寺子屋数1、870件の記録が残っている。私はそれらの項目のうち謝儀、つまり授業料に重点をおいて調べてみた。

 金納つまりお金で授業料を払うケース、農産物など物納のケース、授業料など取らぬケースなどさまざまであるが、地域によってパターンが似ている。名古屋をはじめ尾張西部は金納が多く、東へ進んで三河地区に入るにつれて物納が多くなり、三河山間部では何も取らなくなる。このことは貨幣経済、商品経済の浸透度に直結している。

 また興味深いことに物納地帯、何も取らない地帯になるほど、寺子屋師匠と寺子(生徒)や保護者の人的関係が深くなるように思える。また国際的学力テストで成績が常に上位のフィンランドの教育とよく似た点がいくつもある。例えば上級生が下級生を教える。フィンランドではクンミと称しているが、人数が多い寺子屋でも同じことをやっている。共通点で決定的なのは、フィンランドの教師も寺子屋師匠も社会性を持っていることだ。くわしくはこの四月に上梓された『愛知の寺子屋』(風媒社刊)を読んでください。